アヘン戦争を語る上で必須の人物が2人います。
1人は、
――林則徐
です。
日本語圏では、
――りん・そくじょ
と呼ばれます。
戦争勃発時、いわゆるアヘン問題を担当する特命全権大臣でした。
この特命全権大臣のことを当時は「欽差(きんさ)大臣」と呼んでいました――皇帝の名代として、絶大な権限が与えられました。
もう1人は、
――清の宣宗
です。
日本語圏では、治世の元号をとって、主に、
――道光(どうこう)帝
と呼ばれます。
戦争勃発時の皇帝です――清の八代目の君主であり、乾隆(けんりゅう)帝の孫で、康熙(こうき)帝の玄孫(やしゃご)――つまり、孫の孫――にあたります。
林則徐を欽差大臣に任じたのが、他ならぬ道光帝です。
アヘン戦争が起こる2年前のことでした――ときに、林則徐、53歳――道光帝は、その3つほど年上です。
――アヘン問題
の要点は――
イギリス商人が不当に売りつけてくる麻薬アヘンによって、国内の人々の心身の健康が損なわれ、社会の風紀が乱れていたこと、および、そのアヘンの買い付けと引き換えに、国内の基軸の財貨であった銀が国外へ大量に流出をしていたこと、の2点です。
道光帝は、当初よりアヘンの完全根絶を望んでいたといわれています。
もとより、アヘンは深刻な問題を引き起こすので――
その取り扱いを、清は早くから禁じていました。
その禁令をかいくぐり――
イギリス商人が不法に持ち込んでいたのです。
――アヘンの禁令を徹底させたい。
というのが、道光帝の本音であったようです。
その頃――
皇朝の首脳部では、
――アヘンの完全根絶
と、
――アヘンの部分容認
とで意見が割れていました。
アヘンの有害性は明白でしたから――
その点に異論はありません。
アヘンの部分容認を唱えた者たちは、
――アヘンの完全根絶は、理想ではあるが、不可能である。むしろ、アヘンを公けに認め、その流通が地下に潜るのを防ぐことで、統制を試みるべきである。
と考えました。
きわめて現実的です。
が――
あまりにも現実的すぎて、
――民を守り、慈しむ。
という統治者の建前からは外れるために――
皇朝の政策として推進をするのは憚られるようなところがありました。
その点を道光帝は嫌ったのでしょう。
そんな中――
皇朝の高官の1人であった林則徐が、
――アヘンの徹底根絶は、段階的に行えば、決して不可能ではない。
との主張を始めます。
その主張は、緻密にして具体的でした。
――これなら可能かもしれない。
と思わせるような政策の立案でした。
加えて――
林則徐は、地方の行政官としての経験が豊富でした――実際に、当時の赴任地でアヘンの取り締まりに成果を出していたといいます。
林則徐は、政策の立案だけでなく、行政の実務にも長けていたのです。
道光帝は、林則徐の主張に飛びつきます。
そして、林則徐を欽差大臣に任じました。
――蛮勇を奮い、アヘン問題の解決に全力で取り組んでほしい。
と直に諭したと伝わります。
このことが――
結果的に、アヘン戦争の勃発を招きました。
林則徐の行政官としての手腕は確かでした。
アヘンの密輸の根城になっているとみられた広州に着任をすると、イギリスの官吏や商人らと丁々発止で渡り合い、不可能と思われたアヘンの完全根絶に目途を付けます。
イギリス側が密かに蓄えていたアヘンを全て没収し、廃棄することに成功したのです。
これは、林則徐でなければできなかったことでしょう。
が――
それは、イギリス側にとっては、大損害でした。
メンツも潰されました。
世界の覇権国家を目指すなら、黙って逃げ帰るわけにはいきません。
イギリス政府は中国大陸に遠征軍を派遣し――
林則徐らが防備を固めていた広州を避け、都・北京の外港であった天津を突きました。
これに怖気づいたのでしょう。
道光帝は、あっさり林則徐の任を解いてしまいます――イギリス側の怒りを少しでも和らげるためであったと考えられます。
こうして――
何のために林則徐を用いたのかもわからないような事態となりました。
こういうことなら――
最初から林則徐の主張に飛びつくべきではなかったのです。
道光帝が10代や20代の若年の君主であったなら、
(まあ、仕方がないか)
とも思えます。
が――
還暦間近の老皇帝です。
その昔、三藩の乱で若年にして果断に督戦をした康熙帝の玄孫としては、
(あまりにもお粗末――)
と、いわねばなりません。