マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

アヘン戦争の種火

 アヘン戦争を、

 ――不幸なる中国近現代史の始発点

 と、みなすのは皮相的であり――

 その真の始発点は、西欧列強が東アジアへ来航を始めた15世紀ないし16世紀頃に求める必要がある――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 15世紀ないし16世紀頃――

 中国の全土を支配下に収めていたのは、明です――皇朝・清の一つ前の皇朝です。

 

 明は14世紀後半に建国されています。

 

 建国当初より、

 ――海禁

 の方針が定められました。

 

 ――海禁

 については――

 11月16日の『道草日記』で述べた通り――

 簡単にいえば、

 ――民衆の海上交通の利用に制限をかける政策

 です。

 

 海賊の制圧と密貿易の防止とが目的でした。

 

 ただし――

 明の建国当初は、海賊の制圧が主な目的であったと考えられています。

 

 皇朝の統治を盤石にするには、有効かつ必要な措置であったといえます。

 

 が――

 海禁によって、中国商人らの海上での活動が抑えられました。

 

 その結果――

 東アジアの周辺――東南アジアや南アジアなど――における中国人の存在感は薄れました。

 

 また――

 中国人も、東アジアの周辺の政情に疎くなっていきました。

 

 そんな中――

 西欧列強が、インド洋の制海権を握るのです――15世紀初頭のことでした。

 

 当時、西欧列強の覇権国家ポルトガルです。

 

 ポルトガルは、南アジアに強力な統一国家がなかったことを突き、インドの一部を自国の領土としました。

 次いで、東南アジアのマレー半島にも拠点を築き、インド洋の制海権を握ったのです。

 狙いは、南アジアや東南アジアの豊富な物資でした――当時、アジアはヨーロッパよりも格段に豊かな地域であったのです。

 

 ほどなく――

 ポルトガル人は東アジアにもやってくるようになりました。

 

 ――人がくる。

 ということは、

 ――情報が入ってくる。

 ということです。

 

 が――

 明は、おそらくは海禁の方針のため――

 その情報を巧く活かすことができませんでした。

 

 この頃、もし、西欧列強がインド洋の制海権を握ったことに気づき、危機感を覚えることができたならば――

 明は、海禁の方針を改めたでしょう。

 

 遥々やってきた西欧列強の狙いを正しく掴み――

 彼らが、基本的には、自分たちとは全く異質の文明圏からやってきていることを正しく弁え――

 彼らには、中華思想――ないし、華夷思想――が通用をしないことを見抜き――

 彼らと積極的に交わった上で、自分たちよりも優れているところは学び、劣っているところは教えていく――

 そのような対応が採れたはずなのです。

 

 もちろん――

 こうした対応を採るには――

 それまでは当たり前であった、

 ――自分たちのことは自分たちだけで決めていく。

 という慣習が、もはや許されなくなりつつあることを悟る必要がありました。

 

 西欧列強は、はっきりいえば、招かれざる客です。

 

 が――

 やってきてしまうものは仕方がない――

 

 追い返しても、すぐにやってくる――

 

 ならば――

 とりあえず表向きだけでも誼(よしみ)を結び――

 まずは、相手のことをよく知ることです。

 

 その上で――

 必要があれば、叩く――

 そのためには何が必要か、十分に吟味をし、万全の体制を整える――

 

 具体的にいえば――

 それは、相手の武力を見定めた上で、必要があれば、即座に実力で排除ができるように、自分たちの武力を調えておく――

 

 そのようにして――

 明は――

 好むと好まざるとにかかわらず、

 ――西欧列強の来航

 という変化に対し、適応をしていく必要がありました。

 

 その努力を怠ったがゆえに――

 次の皇朝である清の時代になって、アヘン戦争が起きたのです。

 

 アヘン戦争は、19世紀になって、にわかに着火したのではないのです。

 15世紀ないし16世紀頃には、すでに種火が生じていました。