マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

林則徐の認識は日本列島で広まった

 ――“アヘン問題への危機感”の本態は、“西欧の敵対性”に一早く気づいて備えることができなかったことの認識である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この認識が、アヘン戦争に敗れた当の中国大陸では十分に広まらずに――

 その後の中国近現代史の災厄を招いたと考えられます。

 

 が――

 この認識が、どういうわけか十分に広まった地域が、東アジアにありました。

 

 日本列島です。

 

 アヘン戦争の際に、林(りん)則徐(そくじょ)が、特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――の地位を活かし、西欧列強に関する情報を集め――

 それを友人に伝え――

 その友人が書物にまとめ、“アヘン問題への危機感”を中国大陸に広く訴えたことは――

 おとといの『道草日記』で述べた通りです。

 

 この書物が――

 どういうわけか――

 日本列島で熱心に読まれたのですね。

 

 それは、なぜだったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 理由は幾つか考えられます。

 

 当時の日本列島を支配下に収めていた中央政権――徳川幕府――が、鎖国を行った後も、西欧の情勢に注意を払い続けていたこと――

 また、日本列島における有力な地方政権――いわゆる雄藩――の幾つかが、西欧の情勢に関心をもっていたこと――

 また、アヘン戦争が終わって10年くらいが経った頃に、いわゆる黒船来航の騒ぎが起こり、日本列島の緊張感が一気に高まったこと――

 などが挙げられます。

 

 が――

 これら理由には、共通の背景があるように――

 僕には思えます。

 

 その背景とは、

 ――西欧の敵対性

 への気づきです。

 

 中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝されたように――

 日本列島の人々は、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝されました。

 

 その差は――

 11月24日の『道草日記』で述べたように――

 おそらくは五十歩百歩であったのですが――

 

 その差が――

 少なくとも19世紀中盤から20世紀序盤までの歴史に対しては――

 大きな違いをもたらしました。

 

 中国大陸では、これといった統一政権が現れず、動乱が続き、中国大陸は半ば植民地と化していたのに対し――

 日本列島では、強力な統一政権が現れ、西欧列強の模倣に徹し、一等国(当時の先進国)の末席に名を連ねるまでになっていました。

 

 その日本列島の統一政権も、20世紀中盤で太平洋戦争(大東亜戦争)に敗れ、日本列島も結局は半ば植民地と化したのですから――

 そういう意味では、紛れもなく、

 ――五十歩百歩

 ではあったのですが――

 

 それは、ともかく――

 

 中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝され――

 日本列島の人々が、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝された――

 という違いは――

 中国大陸の人々が、19世紀中盤にアヘン戦争という挫折を経験し――

 日本列島の人々が、20世紀中盤に太平洋戦争という挫折を経験した――

 という違いとなって結実をした――

 といえるでしょう。