――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)が抱いていたであろう決死の覚悟の背景には、冷静な計算が隠されていたのでは?
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
その計算とは、
――アヘン問題に取り組む皇朝・清の欽差(きんさ)大臣――特命全権大臣――がイギリス軍との戦闘で死ぬことによって、この問題が、東アジア文明圏の危機に直結をしているとの認識が、東アジアの全域へ広がるに違いない。
との見込みです。
実際には――
林則徐は欽差大臣の任を解かれ、左遷をされます。
つまり、イギリス軍との戦闘で死ぬことはできなくなりました。
が――
もとより、死ぬことが目的ではなかったので――
林則徐は、すぐに次の手を打ったのです。
それは――
欽差大臣の地位を活かして集めた西欧列強に関する情報を、中国の全土――ひいては、東アジアの全域――に広く知らしめることでした。
その情報を、林則徐は友人に伝え――
その友人が書物にまとめ、実際に当時の西欧の情勢が広く知られました。
その結論は、
――西欧列強と争っても抗えない。まずは西欧列強に従い、学び、抗える力を蓄えるべきだ。
というものでした。
が――
この結論は、少なくとも中国では、それほど重くは受け止められませんでした。
理由は色々と挙げられますが――
要するに、中国の人々は、アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想(華夷思想)を捨て去ることができなかったのです。
――そうはいっても、やはり、我らは華であり、彼らは夷である。
と――
それは林則徐の誤算であった、と――
僕は想像をします。
中国の人々は、なぜ、アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想を捨てることができなかったのか――
その理由は――
アヘン戦争の負け方にあったと考えられます。
きのうの『道草日記』で、提督・関(かん)天培(てんばい)の戦死に触れましたが――
この武官の奮闘は、実は、例外中の例外でして――
清の多くの将軍・提督たちは、まともに戦わずに逃げたり死んだりしています。
イギリス軍が中国の内陸へ侵入した際には――
ホームで迎え撃っている清の兵が、アウェイで攻め寄せているイギリスの兵よりも少ない――
ということがありました。
つまり――
清は、イギリスの侵略に対し、大規模で組織立った反抗が、できなかったのです。
なぜ、そんなことになったのか――
おそらく――
全軍を束ねうる最高指揮官がいなかったからでしょう。
その指揮官の役割は――
本来は、ときの君主――道光(どうこう)帝――が果たすべきでした。
が――
道光帝の体たらくは、11月27日以降の『道草日記』で繰り返し述べてきた通りです。
その役割を果たしうる人物の最有力候補は、当時、間違いなく、林則徐であったと、僕は思いますが――
その林則徐も、任地・広東における海軍の指揮権を与えられていたにすぎません――清の全軍の指揮権を与えられていたわけではなかったのです。
よって――
仮に、林則徐が最後まで罷免をされずに広東の地で10万人以上の兵と共に奮戦をし、壮烈な戦死を遂げたとしても――
それは、あくまで広東での局地戦とみなされ、アヘン問題への危機感が、東アジアの全域はおろか、中国の全土へ広まることさえ、まずなかったに違いないのですね。
林則徐は、アヘン戦争の勃発後10年で世を去っています。
アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想にしがみつこうとした後世の趨勢を、林則徐は、おそらくは知りません。
もし、知ったとしたら――
その徒労感はいかばかりであったか、と――
思わずにはいられません。