――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)は、文官でありながら、任地・広東における海軍の指揮権を手にしていた。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
文官ですから――
もちろん、林則徐に軍の実際的な統率能力はなかったでしょう。
このために――
有能な武官が補佐をしていたはずである――
ということも、きのうの『道草日記』で述べました。
その代表格が――
関(かん)天培(てんばい)という提督であったと考えられます。
関天培は一兵卒から叩き上げで提督にまで上り詰めた人物だそうで――
人望に厚く、様々な身分の者たちから慕われていたといいます。
年齢は林則徐より少し上でした。
林則徐が罷免をされ、アヘン問題に携わることができなくなった後も――
イギリス軍への備えを怠らず――
実際にイギリス軍の精鋭が攻め寄せてきたときには、旧式の砲台で可能な限りの抗戦を試みた後、最後は自殺同然の戦死を遂げたと伝えられています。
物語などでは、自身の周囲に多量の爆薬を置き、イギリス兵をおびきよせて壮烈に爆死をする描写が有名です。
イギリス側の記録によると――
壊滅的な敗北が判然とした後も、30名足らずの側近らと最期まで戦場にとどまり――
遺体となって発見をされたそうです。
おそらくは、林則徐も――
途中で罷免をされることがなければ――
関天培と同じような最期を迎えたことでしょう。
少なくとも――
その覚悟を決めて特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――の任命を受けたと考えられます。
その覚悟が十分に伝わったので――
林則徐は、文官でありながら、武官からも心酔をされたに違いありません。
その覚悟の背景には――
林則徐らしい冷静な計算が潜んでいたと、僕は考えます。
すなわち、
――清の皇帝の名代である欽差大臣がイギリス軍との戦闘で死ぬようなことになれば、事の深刻さが東アジア全域に伝わるに違いない。
という計算です。
その「深刻さ」とは、
――アヘン問題は、たんに皇朝・清の興亡だけでなく、東アジア文明圏の存亡に直結をしている。
という認識です。