マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

豊臣秀吉は日本人の指導者に向いていた

 ――織田信長が本能寺で明智光秀に殺されていなければ、日本はどうなっていたか。

 という問いについて、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そして――

 この問いは、それほど興味深くはない、ということも述べました。

 

 ――本能寺で明智光秀に殺されなくても、いつか、どこかで、誰かに殺されていて、その後、豊臣秀吉徳川家康もしくは、彼らによく似た人物が、日本列島に統一政権を打ち立てていたことであろう。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――日本はどうなっていたか。

 の問いに代わりに、

 ――朝鮮出兵はありえたか。

 を問うことにしましょう。

 

 本能寺で殺されなかった織田信長は、豊臣秀吉と同じように、朝鮮出兵を試みたでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

(試みたであろう)

 と思います。

 

 が――

 豊臣秀吉のように緻密に試みることはできなかったであろう――

 とも思っています。

 

 (豊臣秀吉がまとめえたような大兵団をまとめ、それを実際に朝鮮半島へ送ることは、できなかったのではないか)

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 その理由は、

 (織田信長には、豊臣秀吉のように、不安を感じやすい日本人をまとめあげることができなかったに違いないから――)

 です。

 

 朝鮮半島に兵を出すというのは、ふつうに考えれば、強い不安をかきたてます。

 言葉の通じない異国で、どんな窮地に立たされるかが、わからないからです。

 

 ただでさえ不安を感じやすい日本人に、強い不安をかきたてるようなことを強いるのは、非常に困難です。

 

 ――そこまでやる必要があるか。

 と反発を受け――

 その反発が引き金となって、命を落としていた――つまり、謀叛や暗殺に遭っていた――可能性もある――

 

 ……

 

 ……

 

 裏を返すと――

 そのようなことで命を落とすことのなかった豊臣秀吉は、日本列島に君臨をしえた指導者としては、稀有の存在であったといえます。

 

 おそらく――

 豊臣秀吉は、

 ――喜気は強いが、ほんの少しだけ怯みやすい。

 という性格であったのでしょう。

 

 それゆえに、日本人の不安をよくわかっていて――

 それを効果的に和らげることに長けていたのではないか――

 

 その意味で――

 豊臣秀吉は、不安を感じやすい日本人の指導者に向いていた――

 といえます。