マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「本能寺の変」は織田信長の視点

 織豊期に起こった本能寺の変について、

 

  明智光秀の乱

  = 本能寺の変山崎の戦い

 

 の図式が成り立つことを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 一方――

 室町期に起こった嘉吉(かきつ)の変について、

 

  嘉吉の乱

  = 嘉吉の変 + 播磨(はりま)の戦い

 

 の図式が成り立つことも――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 嘉吉の変の図式を参考にするならば――

 本能寺の変の図式については、

 ――本能寺の変

 を、

 ――明智光秀の変

 に書き換えるのが、もっとも自然です。

 

 少なくとも――

 いわゆる本能寺の変から山崎の戦いまでの一連の争乱を、

 ――明智光秀の乱

 と呼ぶのであれば、

 ――本能寺の変

 は、本来、

 ――明智光秀の変

 と呼ぶのが自然なのです。

 

 が――

 そうはならずに、

 ――本能寺の変

 と呼ばれてきた理由は何かといえば――

 

 (織田信長に対する判官びいきではないか)

 と――

 僕は思っています。

 

 ……

 

 ……

 

 そもそも、

 ――本能寺の変

 という呼称は――

 どちらかといえば織田信長の視点なのですよね。

 

 明智光秀の視点でも、羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――の視点でもない――

 僅かな兵を連れて本能寺という場所に宿泊をしていて不本意な最期を強いられた織田信長の視点なのです。

 

 ――日本人は判官びいきが好きだ。

 とは、よく指摘をされるところです。

 

 ――判官びいき

 というのは――

 ごく簡単にいえば――

 力の弱かった者や運の悪かった者に人々が同情や共感の気持ちを寄せることです。

 

 織田信長は、力は強かったし、運も良かったと、一般にはみなされていますが――

 最期の本能寺の局面に限っていえば、力は弱く、運も悪かったのですね。

 

 押し寄せてきた明智光秀の軍勢は、少なく見積もっても数千――

 本能寺で主君を守って戦った兵は、多く見積もっても百数十――

 力が弱かったのは歴然です。

 

 また――

 にわかに主君を襲うなどの反逆計画は、何かと事前に露見をしやすいものですが――

 このときは、まったく露見をしなかった――

 

 なぜか――

 

 明智光秀の統率が優れていたからといえば、それまでですが――

 どんなに統率が優れていても、運が味方をしなければ、ことは首尾よくは運びません。

 

 明智光秀は、本能寺においては、運が良かったのです。

 裏を返せば、織田信長は、運が悪かった――よって、本能寺で命を落とすことになったのです。

 

 ……

 

 ……

 

 織田信長は、直前まで、自身の最期の場所が本能寺になるとは、夢にも思っていなかったでしょう。

 

 信憑性が高いとみなされている史料『信長公記』――織田信長の一代記――が伝えるところによれば――

 織田信長は、本能寺に外から鉄砲が撃ちかけられたことに気づき、

 ――こは謀叛(むほん)か。いかなる者の企てぞ。

 といって、近習の森蘭丸(らんまる)に様子を見に行かせたところ――

 戻ってきた森蘭丸が、

 ――明智が者と見え申し候(そうろう)。

 と答えたので、

 ――是非に及ばず。

 といったそうです。

 

 最期の「是非に及ばず」は、

 ――相手が明智光秀なら、万に一つも抜け出せる見込みはない。

 の含意であったと解釈をされています。

 

 僕は――

 明智光秀の部将として力量の確かさと、その部将に反逆をされる可能性を微塵も考えなかった迂闊さとを噛み締めた挙句の果ての「是非に及ばず」ではなかったか、と――

 想像をしています。

 

 要するに、

 ――あいつに裏切られたのなら、諦めもつく。

 との達観ではなかったか――

 

 こうしたドラマは本能寺で起こっています。

 少なくとも織田信長の視点では、そうです。

 

 よって、

 ――本能寺の変

 の呼称は、明智光秀の視点でも羽柴秀吉の視点でもなく――

 織田信長の視点に寄っていると考えられるのです。