マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「明智光秀の乱」は誰の視点か

 織豊期に起こった本能寺の変について――

 この、

 ――本能寺の変

 という呼称は、あくまで織田信長の視点である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ところで――

 

 本能寺の変については、

 

  明智光秀の乱

  = 本能寺の変山崎の戦い

 の図式に基づき、

 ――明智光秀の乱

 と呼ぶこともできる、と――

 僕は思っています。

 

 では――

 この、

 ――明智光秀の乱

 という呼称は、誰の視点でしょうか。

 

 たぶん、明智光秀の視点ではありません。

 乱を起こす人物が、その乱に自身の名を冠するようなことは、ふつうはしないでしょう。

 

 では――

 誰の視点か――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――の視点であろうと思います。

 

 正確には、

 ――乱の勝者の視点

 です。

 

 あるいは――

 もっといえば、

 ――歴史の視点

 です。

 

 歴史というのは、常に勝者が書き残すものです。

 

 つまり――

 いわゆる本能寺の変は――

 織田信長の視点でみたら、

 ――本能寺の変

 であり――

 羽柴秀吉の視点でみたら、

 ――明智光秀の乱

 であるのです。

 

 ところが――

 この本能寺の変に限っては、なぜか羽柴秀吉の視点による呼称「明智光秀の乱」は用いられていないわけです。

 

 用いられているのは、織田信長の視点による呼称「本能寺の変」です。

 

 なぜか――

 

 ――織田信長判官びいきをされたから――

 というのが――

 きのうの『道草日記』で示した答えです。

 

 おそらく――

 織田信長が本能寺を無事に抜け出し――

 その後、羽柴秀吉などの他の有力部将の軍勢と合流をして、明智光秀を打ち破っていたら――

 誰もが、

 ――明智光秀の乱

 の呼称を用いていたことでしょう。

 

 織田信長が本能寺を無事に抜け出せなかったから――

 あるいは、本能寺を抜け出すことを早々に諦めてしまったから――

 本能寺の変は、今でも、

 ――明智光秀の乱

 ではなく、

 ――本能寺の変

 と呼ばれ続けているのではないか――

 そう思います。