マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ニコポン

 ――豊臣秀吉は日本人の指導者に向いていた。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 豊臣秀吉が――

 例えば、織田信長と比べて――

 どういった点が、日本人の指導者として、優れていたか――

 

 ……

 

 ……

 

 ――ニコポン

 という言葉があります。

 

 人心掌握実の1つとされ、

 ――ニコニコと笑いながら目下の者の肩にポンポンと手を置きつつ、親し気な言葉をかけること

 です。

 

 明治から大正にかけて内閣総理大臣を務めた桂太郎が得意にしていたとされます。

 

 ――ニコポン

 という言葉は――

 桂太郎の人心掌握術の実際を見聞きした報道記者が、桂太郎を、

 ――ニコポン宰相

 と呼んだことに始まるそうです。

 

 この“ニコポン”を桂太郎が自在に施す前に――

 すでに存分に施していたと考えられる人物がいます。

 

 豊臣秀吉です。

 

 豊臣秀吉は、一度は深刻に敵対をした相手であっても――

 この“ニコポン”を駆使することで、巧みに手懐けていったといわれます。

 

 その極端な例が、徳川家康です。

 

 豊臣秀吉は、徳川家康と干戈を交えた後で――

 これを臣従させています。

 

 徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)は、よくて「引き分け」、下手をすれば「判定負け」とみなされるくらいに旗色が悪かったのですが――

 にもかかわらず、豊臣秀吉は戦後、徳川家康を自らの本拠地に呼び寄せて、居並ぶ有力諸大名たちを前に、臣下の礼をとらせることに成功をします。

 

 このセレモニーの前後で、豊臣秀吉徳川家康を相手に“ニコポン”を効果的に駆使していたことは、想像に難くありません。

 

 散々に世辞をいった上で、

 ――見せかけでもよいから、あなたが私に頭を下げさえしてくだされば、それで戦乱は治まるのですよ。

 くらいはいったでしょう。

 

 同じようなことが――

 織田信長には、たぶん、できませんでした。

 

 織田信長も、豊臣秀吉と同様に、喜気の強い人物であったと考えられるので――

 ニコニコは、したかもしれませんが――

 ポンポンは、おそらくは、していない――

 少なくとも、豊臣秀吉のようにはしていないはずです。

 

 その点が――

 日本人の指導者としてみた場合の――

 豊臣秀吉織田信長との差であったと考えられます。