――豊臣秀吉も、その側近たちも、喜気が強かったのではないか。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
秀吉個人が喜気の強い人物であったろうことは、ともかく――
なぜ、その側近たちも喜気の強い人物たちであったろうと、いえるのか――
……
……
それは、
――おそらく、喜気の強い人物でなければ、豊臣秀吉の傍にはいられなかったから――
です。
喜気が強くない人物――“憂気”が強い人物、もしくは、喜気も“憂気”も強くない人物――は――
豊臣秀吉が積極的に排除をするまでもなく――
自然と、豊臣秀吉の下を離れていったはずです。
ここで――
2020年9月11日などの『道草日記』で示した気分軸について、振り返りましょう。
人の感情は、気分と情動とに分かれ――
気分を測る軸は、
――“憂・喜”軸
であり、それは、
←絶望―自棄―悲哀―平静―愉快―高揚―恍惚→
←大鬱―抑鬱―憂気―平気―喜気―軽躁―狂躁→
で表されます。
ごく簡単に表せば、
←憂―――喜→
です。
先ほど述べた、
――喜気が強い。
というのは、
――たいてい愉快な気分で過ごしている。
という意味です。
このような、喜気が強い人というのは――
“憂気”が強い人と、基本的には、相性が悪いのですね。
ここでいう「憂気」とは、僕の造語です。
2020年9月11日の『道草日記』で述べているように、
――憂いを含んだ気分
くらいの意味です。
――“憂気”が強い。
というのは、
――たいてい悲哀な気分で過ごしている。
という意味です。
おそらく――
豊臣秀吉の帷幕(いばく)には“憂気”の強い人物がいなかったでしょう。
秀吉本人が若かった頃は、ともかく――
朝鮮出兵を行った頃の帷幕には、“憂気”の強い人物はいなかったはずです。
“憂気”が強くない人物――喜気の強い人物、もしくは、喜気も“憂気”も強くない人物――しかいなかった――
そして、喜気が強い人物は、豊臣秀吉と一緒になって、明の都を本気で目指し――
喜気も“憂気”も強くない人物は、ただ事なかれ主義に則り、その場しのぎの働き方をしていた――
そのように考えられます。