マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

皇朝・政権の樹立とキリスト教の禁止との時系列

 “満州地域”に興った皇朝・清は、

 ――海洋国家ではなかったこと

 および、

 ――中華思想華夷思想)に染まっていたこと

 から――

 日本の豊臣政権による西欧列強の脅威に対する懸念は、共有されていなかったと考えられる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 このことは――

 皇朝・政権の樹立とキリスト教の禁止との時系列をみても――

 よくわかります。

 

 キリスト教の禁止に着目をするのは――

 当時の西欧列強がキリスト教の流布を先触れとして、東アジアへの侵略を企てていたと考えられることによります。

 

 皇朝・清の樹立は――

 前身の皇朝・後金を含めると――

 “満州地域”をほぼ統一し終えた1620年前後から、ロシアとの国境を確定させてチベットやモンゴルを支配下においた1690年前後までのことといえます。

 

 そして――

 キリスト教の禁止は、1704年以降です。

 

 この年、いわゆる、

 ――典礼問題

 に一つの結論が出されました。

 

 ――典礼問題

 とは、中国におけるキリスト教の流布について、中国の伝統的な儀礼をどこまで許すのがよいのか、という問題です。

 中国の伝統的な儀礼が、

 ――典礼

 です。

 ローマ教皇は、1704年、典礼の続行を許した上での布教を事実上、禁じました。

 

 ときの君主は四代・康熙(こうき)帝です。

 ローマ教皇の結論を知った康熙帝は、典礼の続行を許さない布教を禁じたのです。

 

 ただし――

 典礼の続行を許す布教は認めていました。

 

 キリスト教を完全に禁じるのは、1723年――五代・雍正(ようせい)帝の治世でのことです。

 

 つまり――

 キリスト教の禁止は、1704年から1723年にかけて段階的に行われたといえます。

 

 一方――

 

 豊臣政権の樹立は――

 前身の織田政権や後身の徳川幕府を含めると――

 織田信長が近畿で影響力を行使し始める1570年前後から、徳川家康が名実とともに日本列島に君臨を果たした1610年前後までのことといえます。

 

 そして――

 キリスト教の禁止は、1587年以降です。

 

 この年、いわゆる、

 ――伴天連(バテレン)追放令

 が出されました。

 

 ――伴天連

 というのは、簡単にいうと、キリスト教の宣教師――布教を実際に担う者たち――のことです。

 

 つまり、

 ――日本列島でキリスト教の流布を試みようとする者は追放する。

 ということです。

 

 ただし――

 実際に追放が徹底をされた形跡はありません――当初は黙認をされることも多かったようです。

 

 実際に徹底をされ始めるのは、1612年頃のことです。

 

 つまり――

 キリスト教の禁止は、1587年から1612年頃まで段階的に行われたといえます。

 

 以上をまとめますと――

 

 皇朝・清は、1620年前後から1690年前後かけて樹立をされ――

 キリスト教の禁止は、1704年から1723年にかけて実施をし――

 

 豊臣政権は、1570年前後から1610年前後にかけて樹立をされ――

 キリスト教の禁止は、1587年から1612年頃にかけて実施をしています。

 

 皇朝・清に皇朝・後金を含めたり、豊臣政権に織田政権や徳川幕府を含めて考えているので――

 何だか奇妙な時系列になっていますが――

 

 大切なことは――

 皇朝・政権の樹立の時期とキリスト教の禁止の時期です。

 

 皇朝・清は、皇朝の樹立を済ませてからキリスト教の禁止に踏み切っているのに対し――

 豊臣政権は、政権の樹立を試みながらキリスト教の禁止に踏み切っているのです。

 

 このことは――

 キリスト教の流布を先触れとする西欧列強の侵略に対し――

 皇朝・清は当初は深刻な懸念をもっていなかったが、豊臣政権は当初から深刻な懸念をもっていた――

 ということを示しているように、僕には思えます。