キリスト教の流布を先触れとする西欧列強の侵略に対し――
中国大陸の皇朝・清は当初は深刻な懸念をもっていなかったが、日本列島の豊臣政権は当初から深刻な懸念をもっていたのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
もし――
皇朝・清と豊臣政権と――正確には、後身の徳川幕府と――が、西欧列強の脅威に対する懸念を共有していたならば――
その後の東アジアの歴史は、だいぶ違ったものになっていたでしょう。
皇朝・清と豊臣政権とが同盟を結び、東南アジアやインドから西欧列強の勢力を追い出す外交を協働で繰り広げたかもしれません。
もちろん、その「外交」の中には「戦争」を含みます。
よって――
かなりキナ臭い歴史にはなったでしょう。
豊臣秀吉による朝鮮出兵によってもたらされた戦禍がスケールアップをし――
東アジアから東南アジア、インドにまで広がった可能性があります。
とはいえ――
その場合には――
実際の19世紀や20世紀の東アジアの歴史とは、似ても似つかない歴史になっていたでしょう。
中国大陸の政権と日本列島の政権とが――
西欧列強の外圧の強弱に呼応して、連携を強めたり反目を強めたりしたのではないでしょうか。
その関係は、西欧におけるイギリスとフランスとの関係に少し似たかもしれません。
……
……
もちろん――
歴史に「もしも……」はありません。
実際の中国大陸の政権である皇朝・清は、日本列島の豊臣政権が抱いていた西欧列強の脅威に対する懸念を共有することはなく――
その豊臣政権の後身の政権である徳川幕府でさえ、その懸念を共有することはなかったのです。
そのまま――
双方の政権とも、1840年のアヘン戦争を迎えることになります。
この戦争は――
11月16日の『道草日記』で述べたように――
皇朝・清の敗北で終わります。
その敗報は、中国大陸ではなく、日本列島で、より強烈な衝撃をもたらした、と――
いわれています。
徳川幕府が、皇朝・清の敗報に、敗戦の当事者よりも驚愕をしえた理由は――
前身である豊臣政権から受け継いでいた無形の残滓によるのかもしれませんが――
いずれにせよ――
その差は、
――五十歩百歩
でしかなかったと、いわねばならないでしょう。