マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

20世紀の日本ではなく、16世紀の日本と比べる

 中国の全土を支配下に収めようとした試みについて――

 20世紀序盤の日本は、12世紀の金や17世紀の清とは違っていた――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん――

 17世紀以前と20世紀序盤とを単純に比べることはできません。

 

 行軍や輸送を含めた軍事技術の程度が違いますし――

 他国への進出ないしは侵略に対する考え方も違います。

 

 よって――

 20世紀序盤の日本を持ち出して、12世紀の金や17世紀の清と比べるのは、適切ではないかもしれません。

 

 より適切なのは――

 16世紀終盤の日本でしょう。

 

 この頃――

 日本列島の人々は、朝鮮半島や“満州地域”を経て、黄河流域へ進出をしようと試みました。

 

 豊臣秀吉による朝鮮出兵です。

 

 朝鮮出兵は――

 朝鮮半島に軍隊を送って武力を誇示することが目的ではありませんでした。

 

 朝鮮半島を抜けて、“満州地域”に至り――

 そこから黄河流域に入って――

 当時、中国の全土を治めていた皇朝・明の都を攻め落とすことが目的でした。

 

 後世の歴史を知っている者からすると、

 ――明の都を攻め落とす? なんとバカげたことを……!

 と、片腹痛く感じられるのですが――

 少なくとも、当時の日本列島の人々の一部は――例えば、豊臣秀吉やその側近たちは――かなり大真面目に明の都を目指したようです。

 

 が――

 その真意は――

 当時も今も、よく伝わっていません。

 

 ――太閤殿下がおっしゃるので、是非もなく――

 といった受け身の気持ちで――

 当時の日本列島の人々の多くが、この遠征に携わったようです。

 

 そのために――

 後世の歴史家たちは、

 ――豊臣秀吉たちは、なぜ、あれほど熱烈に明の都を目指したのか。

 との問いに、大いに悩むことになります。

 

 江戸期以降、

 ――我が子を幼くして亡くした豊臣秀吉の悲しみを紛らせるためではないか。

 とか、

 ――諸大名たちの関心を海外に向けることで政権の安泰を図ったのではないか。

 とか――

 様々な説が流れました。

 

 豊臣秀吉の築いた政権は――

 17世紀序盤で潰え、滅んでいます。

 

 その際に、政権が残していたであろう膨大な資料も、その大半が失われたと考えられます。

 

 当時の政権の最高幹部たちが、何を知り、何を感じ、何を考え、何を断じたのか――

 その詳細が後世に伝わっていないのです。

 

 よって――

 16世紀終盤の日本の試みを、12世紀の金や17世紀の清の試みと比べるのは、そんなに簡単ではありません。

 

 が――

 比べる意義がないわけではない――

 

 ……

 

 ……

 

 あす以降――

 ちょっと比べてみましょう。