いわゆる、
――元寇
は、
――朝鮮半島における日本列島防衛の軍事拠点の有無
という観点でみたときに、明治政府による日韓併合や豊臣秀吉による朝鮮出兵と並んで、無視できない歴史的事象である、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
さらに、一つだけ追加するとしたら、
――白村江(はくすきのえ)の戦い
が挙げられます。
豊臣秀吉による朝鮮出兵から遡ること900年、元寇から遡ること600年の出来事です。
――白村江
は、朝鮮半島の地名です。
当時の朝鮮半島は北部・南西部・南東部の3つに政権が分立していました――それぞれ、高句麗・百済・新羅という王朝です。
これらのうち、北部の高句麗が南西部の百済と手を結んで南東部の新羅を攻め始めます。
危機感を覚えた新羅は中国大陸の新興政権(唐)に助けを求めます。
唐は、まず百済を滅ぼし、次いで、高句麗を滅ぼそうとしますが、滅ぼされた百済の残党勢力が日本列島の政権に助けを求めました。
当時の日本列島は、大化の改新で有名な中大兄皇子(後の天智天皇)が政権を握っていたと考えられています。
中大兄皇子は、百済の残党勢力を助け、朝鮮半島に数万人規模の大軍を派遣しました。
これも、れっきとした朝鮮出兵といえます。
――朝鮮出兵
というと、豊臣秀吉による朝鮮出兵ばかりが思い浮かべられますが、その900年前に中大兄皇子も行っているのですね。
中大兄皇子による朝鮮出兵には、豊臣秀吉による朝鮮出兵ほどではないにしても、様々な理由が考えられているようですが、最も妥当な理由は、
――日本列島防衛の軍事拠点を再建するため
です。
百済は日本列島の政権に和親的な王朝でした。
百済が健在であれば、例えば、中国大陸から侵略軍が派遣されてくる可能性は低いといえる――百済が防波堤になってくれそうだからです――が、百済が滅亡したとなれば、話は違ってきます。
――百済の残党勢力が活動しているうちに、これを助け、あわよくば百済を再興させよう。
それが、中大兄皇子たちの考えであったと考えられます。
結果は、百済・日本の惨敗で終わります。
朝鮮半島に派遣された日本列島の兵士たちのほとんどは帰ってくることができなかったといわれています。
この惨敗で、日本列島は中国大陸ないし朝鮮半島からの侵略を受ける可能性が高まりました――少なくとも中大兄皇子たちは、そう考えたようです。
日本列島防衛のための軍事拠点と目されていた百済が滅び、その再興も阻止されたのですから、自然な考えといえます。
以後、中大兄皇子は日本列島防衛の体制づくりに忙殺されていくのです。