マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

豊臣秀吉や明治政府が試みたことを鎌倉幕府も試みていた

 ――朝鮮半島における日本列島防衛のための軍事拠点の有無

 という観点でみたときに――

 豊臣秀吉による朝鮮出兵よりも以前の歴史的事象として無視できないことは、何といっても、

 ――元寇

 でしょう。

 時代は、朝鮮出兵から300年ほど遡ります。

 

 ――元寇

 というと、

 ――中国大陸の進んだ戦術を採用する侵略軍の前に日本列島の防衛軍はなす術なく敗れ去ったのだが、侵略軍がいったん沖合の船上に引き上げたところ、暴風雨が襲い、侵略軍を壊滅させた。

 という、いわゆる神風伝説が有名ですが――近年の研究によると、この伝説は史実に反するそうです。

 実際には、防衛軍は侵略軍に対して一歩も退かず、むしろ優勢に戦闘を行い、侵略軍を沖合の船上へ追い返したと考えられています。

 元軍の侵略は全部で2回あったのですが、1回目はともかく、2回目は防衛側の大勝利といえる結果であったそうです。

 この結果に乗じて、当時の政権(鎌倉幕府)は、朝鮮半島へ乗り込んでいって橋頭保を築き、中国大陸からの侵略軍の来襲を未然に防ぐことを計画します。

 つまり、後年の豊臣秀吉や明治政府が試みたことを、鎌倉幕府も試みていたのです。

 が、計画は中止されます。

 中止の理由は詳細には明らかにされていないようですが、一言でいえば、

 ――鎌倉幕府朝鮮半島への遠征軍を編成できるだけの財政力がなかった。

 ということのようです。

 つまり、鎌倉幕府は、“朝鮮半島における日本列島防衛のための軍事拠点”を作ろうと考えたのだが、結局は果たせなかった、ということです。

 

 元寇を撃退することに鎌倉幕府は心血を注ぎました。

 ――かなりの無理をした。

 といってよいでしょう。

 その結果、統治機構に様々な歪(ひずみ)が生じ、鎌倉幕府は衰退していきます。

 元寇から50年ほどして、鎌倉幕府は滅亡しました。

 一方、侵略軍を派遣した中国大陸の政権(元)は、元寇で思いのほかの煮え湯を飲まされたことで、ついに日本列島への侵略を諦めます。

 ――その労に見合うだけの益が少ない。

 というのが、彼らの結論であったようです。

 元の後を継いだ政権(明)も、基本的には同じ結論を採用し、以後、中国大陸の政権はもちろんのこと、朝鮮半島の政権が日本列島へ触手を伸ばすことは、ありませんでした。