マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

直近の400年間で“未曾有の異変”

 韓国のムン・ジェイン政権が、アメリカや日本と手を切り、ロシアや中国と手を結ぼうとしている――との憶測が強まっています。

 ムン・ジェイン政権を選んだのは韓国の有権者であり、そのムン・ジェイン政権が決断することは、韓国の有権者の決断ということになりますから、日本国の有権者である僕に口を挟む余地はありません。

 よって、このムン・ジェイン政権の動きを、

 (けしからん!)

 と詰ることはしませんが――日本国の有権者としては、

 (困ったことになりそうだ)

 と思わざるをえません。

 日本の国益が明らかに損なわれるからです。

 

 もし、韓国がアメリカや日本と手を切り、ロシアや中国と手を結べば、日本は敵対勢力と対馬海峡――日本列島と朝鮮半島と隔てる海峡――で向き合うことになります。

 それは構図を単純にしすぎだという指摘は、今は措きます――たしかに、現在、ロシアや中国が日本と常に敵対しているわけではないという一事をもってしても、構図の単純化には慎重であらねばなりません。

 が、きょう僕がいいたいのは、そうした現在の現実の国際情勢ではありません。

 ――この国が、対馬海峡で敵対勢力と向き合うのは、朝鮮出兵以来、400年ぶりである。

 という歴史的俯瞰です。

 ここでいう「朝鮮出兵」とは、いわゆる文禄・慶長の役のことです――豊臣秀吉朝鮮半島から中国大陸へ攻め込もうとした試みのことです。

 あるいは、こういうこともできるでしょう。

 ――あれほど明治政府が嫌った対馬海峡での睨(にら)み合いが、いま始まろうとしている。

 

 以下に述べることは、以前の『道草日記』で述べたことと被ります。

 

 明治政府は、朝鮮半島がロシアの勢力下に入ることを何よりも恐れ、朝鮮半島を自分たちの軍事的影響下に組み込むことを目指しました。

 今日、豊臣秀吉の意図と明治政府との意図は、同じではないにしても、ある程度は似ている、ということが指摘され始めています。

 豊臣秀吉が恐れたのは――そして、その主君であった織田信長が恐れたのは――大航海時代を迎えて久しい西欧列強(スペインやポルトガル)が、中国大陸や朝鮮半島を勢力下に置くことでした。

 当時の中国大陸の政権(明)や朝鮮半島の政権(李氏朝鮮)は西欧列強の進出に鎖国政策で応じるのみで、自分たちが西欧列強の軍事的影響下に組み込まれるかもしれない危険性には無頓着でした。

 織田信長豊臣秀吉も――あるいは、織豊政権の奉行たちも――そんな彼らが歯がゆくて仕方がなかったようです。

 ――西欧列強に先にやられるくらいなら、私たちが!

 その思いが朝鮮出兵の形をとったと推測できます。

 

 その「西欧列強」が「ロシア」に置き換わって、同様の圧力を明治政府を襲いました。

 ――ロシアに先にやられるくらいなら、私たちが!

 その思いが結集したことで、日本は、いわゆる韓国併合から満州国建国、日中戦争へと突き進みます。

 そして、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦という形で手痛い挫折を経験する――

 

 豊臣秀吉も明治政府も考えたことは似ています。

 ――朝鮮半島に日本列島防衛の軍事拠点を置く。

 という戦略です。

 太平洋戦争後は、その「軍事拠点」は、

 ――在韓アメリカ軍基地

 となりました。

 

 ムン・ジェイン政権がアメリカや日本と手を切り、ロシアや中国と手を結ぶということは、在韓アメリカ軍基地の消滅――つまり、朝鮮半島における日本列島防衛のための軍事拠点が失われること――を意味します。

 これは、明治政府――その後に続く大正・昭和の日本の政府――が経験しなかった事態です。

 太平洋戦争後、ほとんど時をおくことなく朝鮮戦争が勃発し、その結果、朝鮮半島の分断が固定化され、朝鮮半島の南部に在韓アメリカ軍が駐留するようになったからです。

 朝鮮半島における日本列島防衛のための軍事拠点が失われるという事態を、最後に経験したのは、織豊政権の末期――豊臣政権の末期――もしくは、徳川政権の初期です。

 が、この時の“軍事拠点”は朝鮮出兵中の一時的なものでしたから、失われても何ということはなかったはずです。

 少なくとも、朝鮮戦争後50年以上にわたって存在していた軍事拠点――在韓アメリカ軍基地――とは意味合いが違います。

 つまり、在韓アメリカ軍基地の消滅は、日本にとって、少なくとも直近の400年間では、

 ――未曾有の異変

 といってよいでしょう。

 

 では、朝鮮出兵以前――400年前よりも以前――にさかのぼると、どうか――

 

 その話は、あすにしたいと思います。