個人的につながりのある韓国人というのは、僕個人についていえば、ほぼ皆無である――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
当然ながら、そうした個人的なつながりは、人によっては多数あるわけです。
個人的につながりのある韓国人が何十人といるような人もいる――
そのような場合は、韓国との関係を考える上で、勘案すべき要素は、あきらかに増えるはずです。
まずは、個人的につながりのある韓国人との個々の関係を考える必要があります。
それとは別に、日本国政府による韓国政府との関係を考える必要がある――
そして、この政府間関係の良し悪しが、個人的につながりのある韓国人との個々の関係――個人間関係の一つひとつ――に与える影響も考える必要があるのです。
政府間関係と個人間関係とは、次元が別です。
よって、人情としては、政府間関係と個人間関係とは別個のものとして扱いたくなる――
が、それを現実は許しません――現実は常に複雑です。
それぞれの政府と個人一人ひとりとの間に何らかの関係――例えば、選挙で信任された者(政治家)が総べる組織と選挙権をもつ者(有権者)一人ひとりとの関係など――がある以上は、政府間関係が個人間関係に及ぼす影響は無視できません。
そうした状況に、例えば報道機関の意思などが入り込んできます。
報道機関は、自国の政府の動向を注視し――ときには他国の政府の動向をも注視し――場合によっては、遠慮会釈なく批評を加え、自らの主張を押し通そうとしますので、状況は、より一層、厄介です。
このような状況において留意したいことは何か――
ことは政府間関係が絡みます。
よって、僕は選挙権に留意したいと思っています――つまり、自分が日本国の有権者であって韓国の有権者ではない、という事実に敏感になる、ということです。
日本国政府と韓国政府とを同等に扱い、同様に語ろうとする人をたまにみかけます。
自分が、
――仲裁役
であるかのように論評をしたり、ときには、
――裁定者
となって「喧嘩両成敗」の結論にもっていこうとしたりする人もいます。
(それは違う)
と、僕は思います。
いえ――場合によっては、それもありです。
もし、その人が日本の有権者でもなく、韓国の有権者でもないのなら、それはありでしょう――仲裁役であっても裁定者であっても、いっこうに構わない――
が、もし日本国の有権者なら、日本国の視点で語るのがよいでしょう――また、韓国の有権者なら、韓国の視点で語るのがよいでしょう。
もちろん、日本国の視点で韓国の状況を慮ることは大切ですし、その逆も、
(大切であろう)
と、日本国の有権者である僕は思いたいのですが――それは、韓国の有権者が決めることですから、これ以上は何もいえません。
要するに、こういった観点の節度が大切であろう、ということです。
この“節度”を守ることが、韓国との関係を考える上では、何よりも大切であると、僕は思います。