マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「損切り」の発想が感じられない

 いわゆる新型コロナ・ウイルス感染症による危機的状況を、

 ――戦争

 と呼ぶ人たちがいます。

 ヨーロッパの国家元首級の政治家たちも、「戦争」という言葉を公然と用い、国民向けの演説を行ったそうです。

 

 その一方で、

 ――これは戦争ではない。疫病だ。

 という人たちもいます。

 ――人間が兵器によって殺害されることと感染症にかかって病没することとを混同している。

 ということです。

 

 僕は、

 ――これは戦争ではない。疫病だ。

 の主張に与します。

 

 が――

 戦争の比喩――隠喩であろうが直喩であろうが――にも一定の意義はあると考えています。

 

 なぜかというと――

 戦争も疫病も、

 ――経済的利益の追及に拘ると、かえって悲惨なことになる。

 という点では共通しているからです。

 

 19世紀や20世紀の国家間戦争は、各国が自国の経済的利益を守ろうとしすぎたことで勃発しました。

 どこかで、人命を第一に考え、今日でいうところの、

 ――損切り

 の発想が意識できていれば――

 世界大戦のような凄惨な状況にはならなかったと考えられます。

 

 未知の病原体による感染症でも、同じことがいえます。

 少なくとも、その病原体の特性が医学的かつ科学的に十分に理解され、その蔓延を防ぎうる適切な対処法が確立されるまでは、

 ――損切り

 の発想を意識することです。

 つまり、自国の経済的利益の保守に拘らない努力をする必要がある――

 

 もちろん――

 新型コロナ・ウイルス感染症による危機的状況でも、そうです。

 

 この新型コロナ危機に対し、日本国政府の採った対応は、

 (ここまでは及第点であった)

 と――

 僕は思います。

 

 少なくとも、感染症政策の疫学的側面・公衆衛生的側面は――

 100点満点ではありませんでしたが――

 限られた時間と限られた資源で、よく対処しえたと感じます。

 

 が――

 感染症対策の経済的側面・施政方針的側面は――

 ちょっと戴けません。

 

 例えば――

 日本国政府は、先月、経済再生担当大臣に新型コロナ危機対策を兼担させるような人事を発令しましたが――

 そのような人事に、

 ――損切り

 の発想は感じられません。

 

 満州事変以後――

 当時の日本国政府が、軍事的な強硬論に染まり、

 ――損切り

 に踏み切れず、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突き進んでいったような危うさを感じます。

 

 今からでも――

 兼担を解くわけにはいかないのでしょうか。

 

 そして――

 感染症政策の専門家か、そうした専門家らと交流のある政治家を登用できないのか――

 

 日本国の有権者の一人として――

 そう感じます。