――“集団免疫の獲得”は、結果であって、方法ではない。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
集団免疫は、遅かれ早かれ、必ずや獲得にいたるはずのことである、と――
……
……
実は――
この、
――獲得にいたるはず――
という表現に、深刻な苦渋が隠されています。
どういうことか――
……
……
端的にいってしまうと、
――感染症の特性によっては、もしかしたら、“集団免疫の獲得”にはいたらないかもしれない。
ということです。
つまり、
――ヒトという生物種の個体の中では、免疫系が機能せず、ヒトを絶滅に追いやりかねない感染症が存在するかもしれない。
ということです。
このようなことをいうと――
少なくとも、この国では、
――縁起でもないことをいうな!
と難詰をされます。
が――
危機管理の要諦は、
――常に最悪の事態を想定すること
です。
――縁起でもないこと
といって、
――最悪の事態
の想定から逃げ出すことは許されません。
よって――
各国政府の感染症対策の担当者たちは――
その“最悪の事態”の可能性をつねに頭の片隅に置いているはずです。
……
……
いわゆる新型コロナ・ウイルス感染症についても同じことがいえます。
今のところ――
新型コロナ・ウイルス感染症では、多くの人たちが間違いなく回復をしていることから、免疫系は十分に機能していると考えられますので――
集団免疫は、いずれは獲得をされるでしょう。
このことを前提に――
“集団免疫の獲得”を急ぐか急がないかが大きな論点となりました。
議論の結果――
ほとんどの国の政府が、
――“集団免疫の獲得”を急がない。
という結論に達しています。
おそらくは、
――1~3年くらいかけて、ゆっくりと“集団免疫の獲得”を待つ。
という結論です。
いわゆる経済活動を含め、社会活動の多くが荒廃するでしょう。
「1~3年」というのは決して短くありません。
が、
――それは仕方がない。
というのが、現時点における世界の考え方の主流です。
なぜ“集団免疫の獲得”を急がないのか――
“集団免疫の獲得”を急げば――
より多くの感染死が起こると考えられているからです。
つまり、
――“集団免疫の獲得”を急がない。
という考えは、
――感染死が多く出るよりは、社会活動の荒廃のほうが、だいぶマシである。
という諦念にほかなりません。