――清の聖祖・康熙(こうき)帝は外交や内政に十分な業績を残し、人心を落ち着かせたことから、中国史上最高の名君と評される一方、その気質には暗さが感じられる。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
その“暗さ”とは何か――
……
……
一つは、
――文字(もんじ)の獄
を始めたことです。
――文字の獄
とは、言論弾圧の一種で――
書物に記された文字が、ときの君主や体制などを暗に呪ったり貶めたりしているものだと主張をして、書物の執筆者などを死刑などに処することです。
それら主張の大半は、たんなる難癖の域を出なかったといいます。
つまり、言論の統制が目的というよりも、言論の担い手である学者や文化人らの処罰それ自体が目的でした。
処罰は苛烈で、執筆者当人だけでなく、その子孫や姻戚にまで及びました。
もっとも――
こうした言論弾圧は、康熙帝が独創的に始めたことではなく、中国の歴代皇朝が、しばしば行ってきたことです。
清の一つ前の皇朝である明の時代にもみられました。
よって、
――康熙帝は文字の獄を始めた。
というのは、正確ではなくて、
――康熙帝は文字の獄を再開した。
あるいは、
――康熙帝は中国の歴代皇朝が行ってきた悪弊を断ち切らなかった。
というのが正確でしょう。
いずれにせよ――
康熙帝の気質の暗さを示す一事とはいえます。
その暗さを、より象徴的に示す事件があります。
康熙帝が即位をしてから50年以上が経った頃に、明の最後の皇帝――毅宗・崇禎(すうてい)帝――の第5子とされる老人が、密かに生き延びていたらしいことがわかりました。
その老人は捕らえられ、最終的には康熙帝の直接の判断によって死刑に処されたといいます。
その判断の根拠が、
――謀叛の事実はないが、謀叛の意図がなかったとまではいえない。
というものでした。
文字の獄と似たような、あるいは、それ以上の難癖といってよいでしょう。
このような難癖で死刑に処されたのでは堪ったものではありませんが――
その「死刑」というのが、ただの死刑ではなくて、体を少しずつ切り落としていくという最も残忍な死刑(凌遅(りょうち)刑)であったというのですから、驚きです。
時代は、清の全盛期に差し掛かっていました。
明が滅んで、すでに50年以上が経っています。
明が滅んで間もなくの頃なら、戦乱の狂気の一端といえますが――
そうではないのです。
例えば――
祖父である清の太宗ホンタイジであれば――
このような仕打ちは決してしなかったでしょう。
また――
曾祖父である清の太祖ヌルハチでも――
おそらくは、しなかったのではないでしょうか。
ここに――
康熙帝の気質の暗さが凝集をしているといえます。