清の聖祖・康熙(こうき)帝の気質の暗さについて――
きのうの『道草日記』で述べました。
こうした暗さは――
もちろん――
康熙帝が喜気の強い人物ではなかったことを示すと考えられます。
むしろ、いくらかの“憂気”を含んでいた、と――
……
……
父・順治(じゅんち)帝ほどではなかったはずですが――
康熙帝は、ほのかに“憂気”を含む人物であったと考えられます。
そして――
勇みやすい性格でもあった――
……
……
10月28日の『道草日記』で――
康熙帝には、
怒 = 憂 + 勇
が感じられる、と――
述べましたが――
それは――
康熙帝が、ほのかに“憂気”を含む人物であると同時に、勇みやすい人物であったことを、端的に述べたものです。
中国史上最高の名君と評される人物ですから――
見境なく周囲に当たり散らすような人物ではなかったと考えられますが――
皇朝の難局において――そして、自分自身の人生の岐路において――重大な決断を支えたのは、おそらく、常に、
怒 = 憂 + 勇
の感情であったと考えられます。
康熙帝の“怒”を最も象徴的に示しているのは、
――三藩の乱
でしょう。
清の二代目の君主・太宗ホンタイジは、
恕 = 怯 + 喜
の人であった、ということを――
10月27日の『道草日記』で述べました。
ホンタイジは、当時、敵対をしていた明の将軍たちの降伏を受け入れ、むしろ積極的に登用をしました。
その方針は、ホンタイジの異母弟ドルゴン――清の事実上の三代目の君主とみなせるドルゴン――によっても、維持をされます。
明が大規模な農民反乱によって都を攻め落とされ、ときの皇帝――明の毅宗・崇禎(すうてい)帝――が自殺に追いやらされた際に――
それまで、黄河流域と“満州地域”との境界で清の侵攻を食い止めていた明の将軍が、ドルゴンに降伏をします。
その将軍に手引きをさせる形で――
ドルゴンは明の都へ無血入城を果たしました。
その後――
ドルゴンは、明の元将軍たちを効果的に用い、明の残党勢力を平らげていくのです。
このように――
清が明に代わって中国の全土を支配下に収めるようになった直接の原因は――
明の将軍たちの何人かが清に降伏をし、かつ清でも将軍として重用をされたことにありました。
ところが――
これら将軍たちが――
康熙帝の時代になって反乱を起こすのです。
これが、
――三藩の乱
です。
清に降伏をし、その後、重用をされた将軍は、ざっと3人です。
3人は中国の南方に事実上の領土を与えられ、半ば独立国の王のように振る舞っていました。
その“独立国”が、
――藩
であり――
3つの藩が反乱を起こしたから、
――三藩の乱
です。
この時――
康熙帝は、まだ二十歳前――皇朝の実権を握ってから3年くらいしか経っていませんでした。
大いに怯んでも致し方のないところでしたが――
康熙帝は全く怯みません。
当初は反乱軍が優勢であり――
清は中国の南半分の版図を失いかけました。
慌てた側近たちは、康熙帝に対し、いったん都を捨て、“満州地域”へ逃げ帰り、そこで再起を図るように勧めます。
が――
そうした勧めを、若き康熙帝は一蹴にしたようです。
康熙帝は、君主としてだけでなく、戦略家としても、実に有能であったと考えられます。
前線から送られてくる数々の報告を一つひとつ丁寧に聞き取った上で、自分にとって納得のいく指示を一つひとつ丁寧に出していったと伝えられています。
――康熙帝は勇みやすい性格であった。
と、僕が考えるのは――
三藩の乱における対処の仕方が、実に果断であったからです。