清の聖祖・康熙(こうき)帝は、
――三藩の乱
に際し、実に果断に対処をした――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
そうした対処が可能であったのは――
三藩の乱を起こした明の元将軍たちに対する強い“怒”の感情があったため、と――
僕は考えています。
実は――
三藩の乱は、康熙帝から仕掛けたと考えられているのです。
明の元将軍たちが中国の南方に事実上の領土を与えられていたことは――
きのうの『道草日記』で述べました。
与えたのは、ほかならぬ清の皇朝――康熙帝が実権を握る前の宮廷の首脳たち――です。
康熙帝は、明の元将軍たちに対し、激しい怒りを覚えていたのではないか、と――
僕は想像をしています。
――節操がなさすぎる!
という怒りです。
もちろん――
その節操のなさを巧みに活かすことで、清の皇朝は明の残党勢力を平らげることができたわけで――
明の元将軍たちにも、言い分はあったでしょう。
が――
感情というのは、理屈で割り切れるものではありません。
理屈に基づけば――
清の皇朝は、明の元将軍たちを誹(そし)れる立場にはありませんでした――むしろ、その後も彼らを手懐(なず)け続けるべき立場にあった――
が――
そうした立場に、康熙帝は、おそらく我慢がならなかったのです。
――なぜ、明の裏切り者たちの機嫌をこの先も取り続けねばならぬのか。
というが――
若き康熙帝の本音であったでしょう。
清の皇朝の大臣たちの多くは、明の元将軍たちの手懐けをやめることに慎重であったといわれます。
事実上の領土になっているのに、それを取り上げようとすれば、武力で抗うことが目にみえていたからです。
が――
なかには、少数ながら、康熙帝の意を汲もうとする者たちがいたようです。
彼らは、
――明の元将軍たちに、この先も領土を与えていれば、いずれは増長をする。増長をすれば、領土は取り上げざるをえなくなる。どうせ取り上げるなら、いま取り上げたほうがよい。
と唱えました。
この少数意見を――
康熙帝は採ります。
一見すると――
康熙帝は新たな理屈を見出したようです。
が――
それは、所詮は、
――結論ありき
の理屈であったでしょう。
その理屈の根本で滾(たぎ)っていたのは――
康熙帝の抑え難かった“怒”の感情に違いありません。
康熙帝は、“怒”の感情に突き動かされて三藩の乱を仕掛け、“怒”の感情に支えられながら三藩の乱を乗り切ったのだ、と――
僕は思います。