いわゆる、
――満州地域
のような広大な“出口”のある地域にとどまりつづける人たちの発想について――
きのうの『道草日記』で述べました。
それは――
一言でいえば、
――冷静かつ楽観的な発想
です。
おそらくは――
不安の感受性を高める遺伝子をもっていない人たちでなければ、そう簡単にはできない発想です。
不安の感受性を高める遺伝子をもっている人たちというのは、
――とにかく怯みやすい。
と考えられます。
気候変動のような緩やかな変化にも、つい怯んでしまう――
一方――
不安の感受性を高める遺伝子をもっていない人たちは――
そう簡単には怯みません。
とくに気候変動のような緩やかな変化には怯みにくい――むしろ、鈍感であったりする――
――まあ、何とかなるだろう。
と考える――
そのような人たちが――
ひとたび速やかに変化に触れると――例えば、隣国の不義のような速やかな変化に触れると――まったく怯むことがなく――
むしろ、がぜん勇みます。
そして――
ときに猛る――
――やりやがったな! 徹底的に叩きのめしてくれる!
と猛る――
……
……
きのうの『道草日記』で触れた遼河文明から数千年が経った頃――
――満州地域
に興った国家が――
隣国の不義に勇んで猛り――
黄河流域へ侵略を始めました。
12世紀の遼河流域に興った皇朝国家、
――金
です。
不義を成した隣国というのは――
10世紀の中国を統一した皇朝国家、
――宋
でした。
宋は、遼河流域で勢力を強め始めた金を煩わしく思い――
しばしば、これと争い――
敗れました。
その結果――
金に有利で宋に不利な条件によって和約が結ばれるのですが――
宋は、それをいとも簡単に反故にするのです。
怒った金は、宋の都・開封を攻め落とし、宋の皇族のほとんどを捕らえ、遼河流域へ連れ帰りました。
――靖康の変
と呼ばれる大事件――宋の側からみれば、大惨事――です。
以後、金は遼河流域のみならず、黄河流域も支配下に収め、中国の北半分を版図に組み込みました。
一方――
中国の南半分――長江流域――は、宋の亡命政権が辛くも押さえます。
金の軍勢が宋の都を襲ったときに――
ときの皇帝の弟が、たまたま都にいなかったのです。
皇帝の弟は長江流域へ逃れ、亡命政権を打ち立てます。
首尾よく黄河流域へ進出を果たした金は、以後30~40年にわたり、どうにかして長江流域も支配下に収めようと試みますが――
巧くいきませんでした。
最終的には、北方からのモンゴル帝国の侵略を許し、ついには滅亡をします。
13世紀のことでした。
……
……
金を興した“満州地域”の人たちは――
中国の全部を支配下に収めることはできませんでしたが――
あと一歩のところまで迫りました。
それは――
勇んで猛ることはあっても――
猛り狂うようなことがなかったからです。
比較的、冷静で楽観的な発想のもと――
確実に成果をあげていく――
そうした強かな一面が――
不安の感受性を高める遺伝子をもっていない人たちには、あるのです。