マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

客観の偽装の始まり――「神経細胞によって伝達される信号」

 ――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”である。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 こう僕が述べたことで――

 注意深い方は、すぐに、

 ――あ、始まった。

 と警戒心を抱かれたことでしょう。

 

 何のことか――

 

 10日前の『道草日記』で僕が述べたことです。

 すなわち、

 ――「意識」や「心」は、主観的に語られる場合と客観が偽装されて間主観的に語られる場合とが混在しやすいので、注意が必要である。

 ということです。

 

 実は、

 ――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”である。

 というふうに、僕が「神経細胞」を持ち出した瞬間に、

 ――客観の偽装

 が始まっていました。

 

 当たり前ですが――

 僕は、僕自身の体の中の神経細胞を確かめることはできません。

 

 “神経細胞によって伝達される信号”の実態も確かめることはできません。

 

 そのような観察の技術を人類はまだ手にしていないからです。

 

 よって、

 ――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”である。

 と述べるのは――

 少なくとも現状では――

 適切ではありません。

 

 ――知覚

 という主観と、

 ――神経細胞によって伝達される信号

 という“偽装された客観”とが混在している、という意味において――

 適切ではありません。

 

 よって――

 遠い将来、自分自身の体の中の神経細胞を確かめることができるようになるまで、僕らは、

 ――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”である。

 と述べることを控えなくてはなりません。

 

 が、

 ――感覚

 であれば――

 とくに問題はないといえます。

 

 ――感覚

 は主観ですから――

 “偽装された客観”の混在する余地はありません。

 

 つまり、

 ――「知覚」の本質は「感覚」である。

 と述べることに、とくに差支えはない――

 

 以上の観点から――

 僕は、しばしば、

 ――知覚

 と、

 ――感覚

 とを明確には使い分けないようにしています。

 

 たいていは、

 ――感覚

 で統一していますね。

 

 厳密には、

 ――知覚

 と述べるべきところを、なにくわぬ体で、

 ――感覚

 と述べたりしています。