マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

いわゆる「クオリア」の問題

 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されることが、意識の働きである。

 とみなすことで――

 いわゆる、

 ――クオリア(qualia)

 の問題に手がかりをもたらすかもしれません。

 

 この「qualia」という言葉はラテン語です――「quale」という名詞の複数形です。

 日本語では「感覚質」と訳されますが、「クオリア」とカタカナで表記をされることのほうが多いようです。

 

 「クオリア」については、様々な説明がなされますが――

 一言でいってしまえば、

 ――らしさ

 です。

 

 例えば――

 赤い苺(いちご)には、

 ――赤い苺の赤らしさ

 や、

 ――赤い苺の苺らしさ

 がある――

 といわれます。

 

 この「らしさ」は、今のところ、個々の主観でしか存在が確認できないと考えられていて――

 これを何らかの形式で抽象化すること――例えば、記号で表現をしたり、数値で表現をしたりすること――は不可能であると考えられています。

 

 このことの意味は、実に重大です。

 

 例えば――

 “神経細胞によって伝達される信号”に変換することも不可能である――

 ということです。

 

 現代の自然科学では、

 ――脳などを構成する神経細胞の機能が心を発生させている。

 と考えます。

 神経細胞の機能は、信号の伝達――活動電位という生理現象の伝播――に本質があると、みなされています。

 

 つまり――

 クオリアの存在を認めるということは、現代の自然科学における脳や心の見解を否定する――あるいは、少なくとも保留する――ということに、ほかなりません。

 

 よって、科学者の中には、

 ――クオリアは錯覚にすぎない。

 とか、

 ――クオリアの問題は疑似的な問題である。

 とかと断言をする人たちが少なからずいます。

 

 もちろん、そのように考えない人たちもいて、

 ――「クオリア」は、今は無理でも、いずれ自然科学によって精密に定義をされるであろう。

 と考える人たちもいます。

 

 大げさにいえば――

 現代の自然科学には、「クオリア」をめぐって、根源的な対立が存在するです。

 

 その対立は、

 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されることが、意識の働きである。

 とみなすことで――

 多少は和らげることができるかもしれない――

 そう思っています。