マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“時間のクオリア”は器のようなもの

 ――「時間のクオリア(qualia)」とは、五感の全てが遮断された際に感じられる何かである。

 と、3日前の『道草日記』で述べました。

 

 それゆえに、

 ――“時間のクオリア”は、様々なクオリアのなかで、最も基本的なクオリアではないか。

 とも述べました。

 

 ここでいう「基本的」の意味は、

 ――あらゆるクオリアに必要である。

 という意味です。

 

 例えば、

 ――“赤い苺(いちご)のクオリア”は“時間のクオリア”を必要としている。

 ということです。

 いいかえれば、

 ――“時間のクオリア”が成立することなく、“赤い苺のクオリア”が成立することはありえない。が、“赤い苺のクオリア”が成立することなく、“時間のクオリア”が成立することは、いくらでもありうる。

 ということです。

 

 あえて喩えるならば――

 “時間のクオリア”は器のようなものです。

 

 その“器”の中に様々なクオリアを容れることで、容れられたクオリアクオリアとして鮮やかに成立しうる――

 そのような性質を、“時間のクオリア”は備えているのではないか――

 そう考えています。