マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「世界→身体→精神→自我→世界→……」という環

 ――時間のクオリア(qualia)

 のようなことについて考えていると、

 ――どこから議論を始めるのがよいか。

 という問いが気になってきます。

 

 古来――

 少なくとも西洋では――

 おそらくは漠然と、以下のように考えられてきました。

 ――はじめに世界が在って、世界が身体を作り、身体に精神が宿り、精神に自我が生じ、自我が世界を観ている。

 

 つまり、

  世界→身体→精神→自我→世界→……

 という環がある――

 ということです。

 

 この環をどこで切るか――

 

 ……

 

 ……

 

 いわゆる唯心論は、「身体」と「精神」との間を切り離します。

 つまり、

  精神→自我→世界→身体

 です。

 

 いわゆる唯物論は、「自我」と「世界」との間を切り離します。

 つまり、

  世界→身体→精神→自我

 です。

 

 一方――

 中世までの一神教の文化圏の人々は――

 「世界」の前に「神」を置き、「神」から議論を始めることで、「自我」と「世界」との間を切り離したと考えられます。

 

 つまり、

  神→世界→身体→精神→自我

 です。

 

 ――我、思う、ゆえに我あり。

 で有名な16世紀の哲学者ルネ・デカルトは――

 「世界」の前に「神」を置いたまま、「自我」から議論を始めることで、「自我」と「精神」との間を切り離したと考えられます。

 

 つまり、

  自我→神→世界→身体→精神

 です。

 

 このような枠組みを踏まえ――

 20世紀終盤になって、この国で、

 ――「世界」と「身体」との間を切り離し、「身体」から議論を始めてはどうか。

 との着想を世に問われたのが、『唯脳論』でおなじみの解剖学者・養老孟司さんであった、と――

 僕は理解をしております。

 

 つまり、

  身体→精神→自我→世界

 です。

 

 すぐにおわかりのように――

 この環の切り方は――「神」を挟むか挟まないかは措くとして――全部で4通りでした。

 

 『唯脳論』で全てが出そろったことになります。