マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“時間のクオリア”を探る向き

  ――時間のクオリア(qualia)

 のことを考えていると、

  世界→身体→精神→自我→世界→……

 という環のことが気になってくる――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

  世界→身体→精神→自我→世界→……

 と記すと――

 あまり環のように感じられないので――

 以下のように記してみます。

 

  世界 → 身体 ↓

  ↑ 自我 ← 精神

 

 ……

 

 ……

 

 うーん。

 いま一つ、環の感じが出ませんね(笑

 

 では――

 以下のように記してみます。

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 ……

 

 ……

 

 少しは感じが出ていますかね。

 

 さて――

 

 ……

 

 ……

 

 ――時間のクオリア

 というのは、

 ――自我が世界から感じとるもの

 といえます。

 

 時間は、空間と並び、世界の構成要素の基本の1つです。

 

 その時間が呈するクオリアは、当然、世界に起源をもつはずで――

 自我は、世界を探り、その結果として、“時間のクオリア”を感じとっているはずです。

 

 が――

 自我は世界から“時間のクオリア”を直に感じとっているのではありません。

 

 精神および身体を経由して感じとっていると考えられます。

 

 つまり、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 の環において、「世界」と「身体」との間を切り離し、

  自我→精神→身体→世界

 の向きに探り、“時間のクオリア”を感じとっている――

 といえます。

 

 これは――

 きのうの『道草日記』で触れたデカルトの探り方とは逆向きです。

 

 デカルトは、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 の環において、「自我」と「世界」との間に「神」を挟み、「自我」と「精神」との間を切り離して、

  自我→神→世界→身体→精神

 の向きに探っていったと考えられます。

 

 この経路から「神」を除けば、

  自我→世界→身体→精神

 となります。

 

 デカルトの時代は、「世界」と「身体」との関連――例えば、生命現象の原理や生物進化の過程など――あるいは、「身体」と「精神」との関連――例えば、脳・神経系の形態・機能や心理の無意識的な側面など――については、ほとんど何もわかっていなかったに等しいので――

 必然的に、

  自我→世界→身体→精神

 の経路をたどることになったと考えられます。

 

 この逆が―― 

 “時間のクオリア”を探るときの向きです。

 

 “時間のクオリア”を探るときは、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 の環において、デカルトと同じく「自我」を起点に据えていますが、その起点から探っていく向きは、

  自我→精神→身体→世界

 であり――

 デカルトの向きとは正反対なのです。