――我を強く意識する。
とは、
――己を意識しなくなる。
ということである、と――
きのうの『道草日記』で述べました。
すぐにおわかりのように、
――己
とは――
要するに、
――身
や
――心
のことです。
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環にある「身」や「心」のことです。
よって――
我を強く意識している者は、「我」と「心」との間をつい切り離したくなります。
2日前および3日前の『道草日記』で――
藤原道長は、
この世をば
我が世とぞ思ふ
望月の
欠けたることも
無しと思へば
の和歌を詠むことによって、「我」と「心」との間を切り離し、「我」と「世」との繋がりを重くみた、と述べたのは――
そうしたことによります。
このことは――
一般に、
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環においては――
――「我」は「世」の方を向きがちである。
ということを示唆しています。
つまり、
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は、少なくとも自発的には、時計回りをしようとする――
世 → 身 ↓
↑ 我 ← 心
であろうとする――
いうことです。
この傾向は、“身”や“心”に関する知識の広さや理解の深さとは関係なく、古今東西、普遍的にみられる傾向のように思います。
この傾向は――
この先、生理学や心理学が高度に発達し、“身”や“心”のことが、より広く、より深くわかったとしても――
たぶん続いていくことでしょう。
よって――
僕らは――
この環を反時計回りにしようとすることに常に自律的であるのがよい――
といえます。
つまり、
世 ← 身 ↑
↓ 我 → 心
です。
いいかえるならば――
放っておけば、
世 → 身 ↓
↑ 我 ← 心
であるのだから――
努めて、
世 ← 身 ↑
↓ 我 → 心
であるようにするのがよい――
ということです。
2月12日の『道草日記』で触れた、
――“時間のクオリア(qualia)”の向き
も、そうした文脈でとらえるのがよいと考えます。