世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環と和歌との関連について――
もう少し述べたいと思います。
きのうの『道草日記』で、
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環を反時計回りにするのは、ほどほどにするのがよい――
と述べました。
このことは――
環の向きと和歌の叙情とを考えると、直観的に理解できます。
どういうことか――
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環を時計回りにしている和歌は何となく明るいのに対して、反時計回りにしている和歌は何となく暗いのです。
例えば、
この世をば
我が世とぞ思ふ
望月の
欠けたることも
無しと思へば
は明るくて、
数ならで
心に身をば
まかせねど
身にしたがふは
心なりけり
は暗いとは感じませんか。
……
……
それぞれ、もう一つずつ、例を挙げましょう。
我が庵は
都のたつみ
しかぞ住む
世をうぢ山と
人はいふなり
「我」と「世」とが詠み込まれています。
歌意としては、
――私の庵は都の東南にあって、このように住んでいる。それを「世を憂(う)しているから宇治(うじ)山だ」などと人はいっているそうだ。
といったところでしょうか。
「憂し」と「宇治」とが掛けられていると考えられています。
また、「然(しか)ぞ」と「鹿ぞ」とが掛けられていると考える人もいます。
その場合は、歌意は、
――私の庵は都の東南にあって、然(しか)と鹿が住んでいる。それを「世を憂(う)しているから宇治(うじ)山だ」などと人はいっているそうだ。
といったところでしょう。
何となく明るい和歌ですよね。
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は――
おそらくは時計回りです。
一方――
以下は、平安末期から鎌倉初期を生きた僧にして歌人・西行の和歌です。
心から
心にものを
思はせて
身を苦しむる
我が身なりけり
「心」と「身」とが詠み込まれています。
また、「我が身」という言葉で「我」も詠み込まれています。
歌意としては、
――心から心に任せて物を思うことで、身を苦しめている我が身であることよ。
といったところでしょうか。
何となく暗い和歌ですよね。
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は――
おそらくは反時計回りです。
明暗の鍵を握っているのは――
きのうの『道草日記』で触れた“我の本性”でしょう。
時計回りは、詠み手の“我の本性”に沿っていて、気持ちに負担をかけないから、明るい和歌となり――
反時計回りは、詠み手の“我の本性”に反していて、気持ちに負担をかけるから、暗い和歌となる――
そんな気がします。