世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環をみていて――
平安中期の摂政・藤原道長が詠んだとされる和歌、
この世をば
我が世と思ふ
望月の
欠けたることも
無しと思へば
が思い浮かんだ、と――
2月17日の『道草日記』で述べました。
一方――
その10日後からの『道草日記』で、
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
の環にある「世」「身」「心」「我」に、それぞれ修飾語をつけるとしたら、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
になる――
とも述べました。
この修飾語つきの環をみながら――
もう一度、藤原道長の和歌を振り返りたいと思います。
実は――
この和歌を、僕は稀代の傑作であったと思いたいのです。
もちろん――
その評価は、この和歌を詠んだ本人・藤原道長の思惑からは遠く外れているかもしれません。
おそらく――
現代の国文学的な見地からも大きく外れているのでしょう。
藤原道長の和歌の何が素晴らしかったか――
……
……
やはり――
一句めと二句めです。
この世をば
我が世とぞ思ふ
です。
――この“人の世”を「我が世」と思う。
と宣言をしてしまう――
その強引ともいえる修辞は、文芸的なインパクトが十分です。
この大風呂敷を三句め以降で巧く回収しています。
望月の
欠けたることも
無しと思へば
「望月」というのは、つまりは「満月」ですから、欠けているところがないのは当たり前です。
「望月」といった時点で、「欠けたることも無し」は字義的に保証されている――そんな当たり前の美を思うだけで、
――厄介な“人の世”さえも「我が世」と思えるのだ。
と述懐しているのですね。
満月に欠けているところがないのを確認することは、実は誰にでもできるのです。
ただ、満月を見上げればよい――そうすれば、すぐに確認できる――とくに栄耀栄華を極めた者でなくても――例えば、ごく平均的な現代日本のサラリーマンであっても――すぐに自分の目で確認することができるのです。
――藤原道長の作とされる有名な和歌は、実は「足るを知る」の洞察を巧みに詠み込んだ和歌ではなかったか。
ということは、2月18日の『道草日記』で指摘しましたから、もう繰り返しませんが――
もし、藤原道長に、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
という環が観(み)えていたならば――
――身も心も、しょせんは“我が身”であり、“我が心”であるのだ。いっそのこと、世も、“我が世”と思うことにしようではないか。
そういって高笑いをしていたのではないか――
そんな気がします。
そして――
その高笑いに、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
の環の反時計回りの響きが少しでも混じっていたら――
それを「驕り高ぶった権力者の哄笑」とは誰も思わないでしょう。