マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「我」は正統に考えれば「今の我」だけれど

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 という環にある「世」「身」「心」「我」へ、それぞれ修飾語をつけるとしたら、どうなるか――

 「身」や「心」には「我が」をつけて、

 ――我が身

 ――我が心

 であり――

 「世」には「人の」をつけて、

 ――人の世

 である――

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 「我」は、どうでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 「身」も「心」も「我が身」「我が心」なのですから――

 「我」も「我が我」とすればよさそうなものです。

 

 実際――

 意味を考えれば、その通りなのですが――

 

 ちょっと冗長ですよね。

 

 ……

 

 ……

 

 なので――

 僕は、 「今の」をつけて、

 ――今の我

 がよいと思っています。

 

 ――我

 は、あくまで、現在の“我”であって、過去や未来の“我”ではない――

 ということです。

 

 過去や未来の“我”は、現在の“我”によって省みられますから、“自我”ではなく、“自己”――

 つまり、

 ――己

 です。

 

 よって、

 ――今の我

 が適切でしょう。

 

 以上を正統な答えとした上で――

 

 (とても日本的だなぁ)

 と思う答えもあります。

 

 ――某(それがし)の我

 です。

 

 「我」に「某(それがし)の」をつけて、

 ――某(それがし)の我

 とする――

 

 「某」は、

 ――なにがし

 ともよみます。

 そうよむときは、不特定の人称代名詞で、

 ――誰か

 という意味になります。

 

 そのような意味のみで――

 平安期までは使われていたのですが――

 鎌倉期以降、

 ――それがし

 というよみ方が出てきました。

 

 そして――

 室町期以降、「某」を、

 ――それがし

 とよむ場合は、

 ――私

 という意味の一人称代名詞となります。

 

 この「某(それがし)の」を「我」につけて、

 ――某(それがし)の我

 とするのが、

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 の環の「我」にとっては、案外、適切なのではないかと感じています。

 

 もちろん――

  「某(それがし)」の語源を知っている人は、

 ――「某(それがし)の我」とは、いかなる意味か。矛盾だ。

 と訝るでしょう。

 

 が――

 そこを、

 ――あえて曖昧にしておきましょうよ。

 というのが、

 ――某(それがし)の我

 の真意です。

 

 僕が、

 (とても日本的――)

 と感じるのは――

 そうしたことによります。

 

 ……

 

 ……

 

 以上をまとめますと――

 こうです。

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 の環にある「世」「身」「心」「我」に修飾語をつけるとしたら――

 正統な答えとしては、

 

  人の世 ・ 我が身 ・

  ・ 今の我 ・ 我が心

 

 ですが――

 日本的な答えとしては、

 

  人の世 ・ 我が身 ・

  ・ 某の我 ・ 我が心

 

 というのも、ありではないか――