世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環を、より詳しく記すならば、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
もしくは、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 某の我 ・ 我が心
であろう、ということを――
おととい、きのうの『道草日記』で述べました。
最大の示唆は、
――“我が身”以外の“身”――つまりは“人の身”――や、“我が心”以外の“心”――つまりは“人の心”――は、すべて“人の世”に含まれる。
という点です。
もし、
――人の我
というものを定義するならば、これも“人の世”に含まれます。
要するに――
客観的にみれば――つまり、間主観的にみれば――“今の我”や“某(それがし)の我”の周辺などは、実にちっぽけな存在なのです。
少なくとも、“人の世”と比べたら、とるに足らない存在です。
“今の我”や“某の我”が、つい“人の世”ばかりをみて、“我が心”や“我が身”をみすごしてしまうのは――
至極当然のことといえましょう。
が――
ひとたび“我が身”や“我が心”の存在に気づいてしまったら――
今度は逆に、あれほどまでに大きな存在であった“人の世”が、とるに足らない存在に思えてしまうのです。