世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は――
「我」が「世」の方を向こうとする本性――本来の性質――によって駆動され――
つねに時計回りであろうとする――
ということを――
この4日間の『道草日記』で繰り返し述べています。
“世”が“身”を生み、“身”に“心”が宿り、“心”が“我”を備え――
その“我”が、つねに“世”に気を配っている――その“世”で、“身”や“心”が生き残るために――
それが――
人の自然な在り方だといえます。
この在り方を客観的にみようと思ったら――つまり、間主観的にみようと思ったら、
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は、「世」と「我」との間で切り離され、
世 → 身 → 心 → 我
と解(ほぐ)すのがよいはずです。
なぜならば――
おそらく、“身”は“世”の一部であり、“心”は“身”の一部であり、“我”は“心”の一部であるから――
つまり――
数学の集合の記号を用い、
世 ⊃ 身 ⊃ 心 ⊃ 我
と表される関係にあるようだから――
です。
が――
人の自然な在り方を主観的にみようと思ったら、「我」と「世」とで切り離すことはありえない――
むしろ、「我」と「心」との間で切り離すしかないのです。
それは――
“我”が、その本性に従って、絶えず“世”に拘ろうとするあまり、自身の出自を忘れようとしている――つまり、“我”が“心”の一部であることを忘れようとしている――からに、ほかなりません。
つまり――
主観においては、あくまで、
我 → 世 → 身 → 心
なのですね。
……
……
世 ・ 身 ・
・ 我 ・ 心
という環は――
本来、
世 ⊃ 身 ⊃ 心 ⊃ 我
であるから、
世 → 身 → 心 → 我
と解(ほぐ)すのがよいはずなのに――
なぜか、
我 → 世 → 身 → 心
と解してしまう――
その強引さこそが、
――主観の真髄
といえそうです。
主観は、間主観的にみたら、とんでもなく不自然な現象なのです。