一神教の文化圏では、
神 ・ 世界 ・ 身体
・ 自我 ・ 精神 ・
という環が想定されたのに対し――
日本語文化圏を含む多神教の文化圏では、
神々 ・ 世界 ・ 人々
という線が想定されるにとどまった――
ということを――
2月13日の『道草日記』で述べました。
この、
神々 ・ 世界 ・ 人々
の線は、日本語文化圏については、
鬼 ・ 世 ・ 人
と書き記すのが妥当であろう、ということは――
きのうの『道草日記』で述べた通りです。
さて――
この、
神 ・ 世界 ・ 身体
・ 自我 ・ 精神 ・
という環と、
鬼 ・ 世 ・ 人
という線とを見比べたときに――
あなたは、何を思うでしょうか。
――多神教の文化圏は、日本語文化圏よりも高度な思索の基盤があったようだ。
と思うでしょうか。
たしかに――
そうした一面はあります。
神 ・ 世界 ・ 身体
・ 自我 ・ 精神 ・
という環を前提に思索を深めるほうが、
鬼 ・ 世 ・ 人
という線を前提に思索を深めるよりも――
何かと有利であるように思えます。
が――
“環”というのは、閉じた構造であるがゆえに、原理的な限界をもっています。
“線”というのは、開いた構造であるがゆえに、無限大の広がりをもちえます。
これら“環”と“線”とを融合させるような発想はできないものか――
そんな問いから導かれたのが――
きのうの『道草日記』で示した環です。
つまり、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
であり、
鬼の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
です。
これら2つの環は常に可換です。
つまり、
人の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
↑↓
鬼の世 ・ 我が身 ・
・ 今の我 ・ 我が心
です。