マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「我を強く意識する」の意味

 藤原道長紫式部との違いは、

 ――日頃どれくらい強く“我”を意識していたかどうかの違い

 である、ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでいう、

 ――我を強く意識する。

 とは、どういう意味か――

 

 決して、

 ――己を厳しく省みる。

 という意味ではありません。

 

 ――我

 が、「自我」に相当するように、

 ――己

 は、「自己」に相当します。

 

 よって――

 自分で自分のことを振り返るときに、主体が「我」であり、客体が「己」です。

 

 よって、

 ――我を強く意識する。

 は、

 ――己を強く意識する。

 とは、あきらかに異なります。

 

 ――我を強く意識する。

 とは、

 ――自発的に感じとれることのみを意識する。

 という意味です。

 

 つまり――

 自分の感じとることには疑いを挟まず、それを強く信じ、考え、動こうとする――

 ということです。

 

 一方、

 ――己を強く意識する。

 とは、

 ――自発的に感じとれることだけでなく、自律的に感じとれることも意識する。

 という意味です。

 

 つまり――

 自分の感じとることにも場合によっては疑いを挟み、それをいたずらに強く信じることはせず、他者の感じとることも幅広く採り入れ、信じ、考え、動こうとする――

 ということです。

 

 いいかえるならば――

 

 ――我を強く意識する。

 とは、

 ――己を意識しなくなる。

 ということ――

 つまり、

 ――己を忘れる。

 ということです。

 

 藤原道長は我を強く意識していたはずです。

 そうでなければ、苛烈な政権闘争にのめりこむことはできなかったでしょう。

 その藤原道長の娘に仕えた紫式部にも、そうした気質は多少はあって、それなりに共感は示していたでしょう。

 が、藤原道長ほど強く我を意識したわけではなかったに違いありません。