マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「自我」が強烈に意識されたからこそ

  世界→身体→精神→自我→世界→……

 という環について――

 あるいは、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 という環について――

 おととい以降、『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 この環をみていると――

 色々なことに気づきます。

 

 例えば――

 中世までの一神教の文化圏の人々の発想が、よくわかるような気がするのです。

 

 今日の自然科学――とりわけ、生命科学神経科学――の知見を踏まえれば、

  自我→精神→身体→世界

 の経路をたどることは、何とか可能です。

 少なくとも、

 ――絶望的に不可能

 というわけではありません。

 

 が――

 中世の頃までの自然科学――厳密には、「自然科学」に相当する学問――の知見では、

 ――絶望的に不可能

 といわざるをえませんでした。

 

 その不可能性を――

 意識してか意識せずしてかは、わかりませんが――

 

 この、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 という環について、その反時計回りの経路を諦め、時計回りの経路を究めようとした点は――

 達観といえるでしょう。

 

 が――

 今日の自然科学の知見が暗示しているように――

 「自我」と「世界」との間は、そう簡単には結び付けられません。

 

 (そこで「神」という概念が設定されたに違いない)

 と、僕は考えます。

 

 つまり、

 

  神 ・ 世界 ・ 身体

  ・ 自我 ・ 精神 ・

 

 という環です。

 

 一神教における、

 ――神

 の概念は、「自我」と「世界」とを実に巧妙に繋ぎます。

 

 とくに――

 「自我」という唯一無比の概念との相性が抜群によい――

 

 「自我」が強烈に意識されたからこそ――

 一神教の文化圏では、神が唯一無比の存在でなければならなかった、と――

 考えられます。

 

 一方――

 東洋などでみられる多神教の文化圏では、「自我」が強烈に意識されることはなかった――

 それゆえに、神は唯一無比である必要がなかったのでしょう。

 

 多神教の文化圏では、おそらく、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 という環は想定されず――

 どちらかというと、以下のような線が想定されるにとどまったと考えられます。

 

  神々 ・ 世界 ・ 人々

 

 そこでは、

 ――「世界」は、たんに人々と神々とが交わるところ

 と、みなされていたでしょう。