一神教の文化圏では、
神 ・ 世界 ・ 身体
・ 自我 ・ 精神 ・
という環が想定されたのに対し――
多神教の文化圏では、たんに、
神々 ・ 世界 ・ 人々
という線が想定されるにとどまったではないか――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
この主張の正否はともかくとして――
僕がいいたいことは、
――「自我」が意識されるかされないかで、世界の観(み)え方は変わってくる。
ということです。
「自我」が意識されなければ、「精神」も「身体」も概念として確立されにくかったに違いありません。
そして、その精神や身体を生んだはずの世界に対する観察の仕方も、おのずから変わっていたに違いない――
いわゆる自然科学の思想や手法が生み出されたのは、一神教の文化圏です。
多神教の文化圏で自発的に生み出されることは、とうとうありませんでした。
この違いは、
――「自我」を強く意識した上で世界を観ていたかどうか。
の違いでしょう。
もう少し踏み込んでいうと、
――「世界」が環に組み込まれていたかどうか。
の違いです。
世界 ・ 身体 ・
・ 自我 ・ 精神
でも、
神 ・ 世界 ・ 身体
・ 自我 ・ 精神 ・
でもよいのですが――
「世界」が環に組み込まれていたからこそ――
一神教の文化圏では、世界の観察が通り一遍にならずに済んだのではないか――
神々 ・ 世界 ・ 人々
のような線に組み込まれていたら、どうしても世界の観察は通り一遍となってしまいます。
しかも、そのことに対する疑問も生じにくかったに違いありません。