マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

意識の「照明」は「舞台の照明」

 ――意識の及ぶ範囲の内部において、現在、事物が認識されているか認識されていないかの違い

 と、

 ――意識の及ぶ範囲の内部として事物が認識されているか、外部として認識されているかの違い

 との間に、何か本質的な区別をつけることができない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 より簡単にいってしまうと、

 ――意識の清明性の有無と意識の可及性の内外とは本質的に同じである。

 ということです。

 “照明の比喩”を用いれば、

 ――着いていた照明が消えることと照明の範囲の内から外に出ることとは本質的に同じである。

 となります。

 

 ところで――

 

 この「照明の比喩」の「照明」は、あくまでも「舞台の照明」であって、

 ――照明なら何でもよい。

 ということではありません。

 

 舞台では、ふつう何かイベントが催され、それを観る観客がつきものです。

 照明は、舞台の装置の一部に過ぎません。

 

 舞台の照明の機能が意識の性質に擬せられるときに――

 この「舞台」は何を喩えたものでしょうか。

 

 結論からいうと――

 「舞台」それ自体は何を喩えたものか、よくわかりません。

 

 が、「舞台の装置」の全部は、心を喩えたものです。

 ここでいう「舞台の装置」とは、例えば「観客席」や「そこに座る観客」の存在も含めて全てを指しています。

 

 「観客」は自我の喩えです。

 より正確にいうと、自我の視点が「観客の視点」に喩えられています。

 

 では、「舞台で催されるイベント」は何を喩えているのでしょうか。

 

 これは、自我が感知しうる事象(events)――心の外の世界で起こっている事象――を喩えています。

 つまり、「舞台の上を立ち回る俳優たち」も「その俳優たちが手に持つ小道具」や「舞台の上に置かれた大道具」も、すべて自我の感知している事物を喩えたものです。

 

 このような「舞台」における「照明」の機能が、意識の性質をよく説明しうるのです。