――「意識」の十分な定義は存在していないが、“意識と無意識との違い”が存在しているらしいことは、ほぼ確実視されている。
ということを――
4日前の『道草日記』で述べました。
一方――
きのうまでの『道草日記』で、「意識」の何となくの定義についても述べました。
その「何となくの定義」とは、
――心が眠っていない状態
です。
この「何となくの定義」から、
――意識とは何か。
の問いに答えを出すことはできません。
が、
――意識と無意識との違いは何か。
の問いに答えを出すことなら、できます。
おとといの『道草日記』で、
――意識は清明性と可及性との少なくとも2つの基準で評価できる。
と述べました。
このことから、
――意識の性質は舞台を明るく照らす機能になぞらえられる。
とも述べました。
この“照明の比喩”を用いれば、“意識と無意識との違い”は簡単に記せます。
すなわち、
――照明が当たっているか当たっていないかの違い
です。
ここで留意をするべきは――
照明が当たっている部分と当たっていない部分とが容易に区別をつけられる一方で、容易には区別をつけられないことが生じている、という点です。
すなわち、
――照明が当たっていない部分については、照明が消えて舞台の全部が暗くなっていることと、照明が届かないことで舞台の一部――例えば、舞台の端の方――が暗くなっていることとの間に、何か本質的に区別をつけることはできない。
ということです。
意識の「清明性」や「可及性」を用いて説明をすれば――
以下のようになります。
すなわち――
意識の「清明性」が、
――意識の及ぶ範囲がどれほど明瞭に認識されているか。
であり――
意識の「可及性」が、
――意識の及ぶ範囲がどれほど広範に認識されているか。
であることに注意をすると、
――意識の及ぶ範囲の内部において、現在、事物が認識されているか認識されていないかの違い
と、
――意識の及ぶ範囲の内部として事物が認識されているか、外部として認識されているかの違い
との間に、何か本質的な区別をつけることができない――
この洞察こそが、
――無意識の発見
と呼ばれることの中身であろう、と――
僕は考えています。