マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“時間のクオリア”は純粋持続か

 ――時間のクオリア(qualia)

 という概念があって、それは、

 ――時が流れている感じ

 である――

 などといえば――

 察しの良い方は、すぐに、

 ――それって、つまりは、ベルクソンのいった純粋持続みたいなことでしょ?

 と指摘されるに違いありません。

 

 「ベルクソン」とは――

 19世紀から20世紀にかけて活動をしたフランスの哲学者アンリ・ベルクソンのことです。

 

 ――時間の本質を図で示すことはできない。

 と主張し、哲学の時間論に新風を巻き起こしました。

 

 ベルクソンが主張したことを、ごく簡単にいってしまえば――

 以下の通りとなります。

 

 すなわち、

 ――“意識の働き”は、音楽の旋律が流れるように、流れている。その流れは、常に同じ向きであり、途絶えることはない。この流れは、数値で表すことができず、あい異なる性質が混然一体となって流れているように感じられる。しかも、この流れは完全に自発的であり、能動的であるように感じられる。

 

 この“流れ”を――

 ベルクソンは、

 ――純粋持続

 と呼びました。

 

 そして――

 この“流れ”は、ただ心によって感じとられているだけであり、図に示されるようなことは決してない――

 とも述べています。

 

 例えば――

 物理学で想定される時間軸のような――線や矢印の形で表されるような“流れ”は、単に、

 ――持続

 であって、

 ――純粋持続

 ではない――

 と主張したのですね。

 

 ……

 

 ……

 

 ――時間のクオリア

 は、ベルクソンの唱えた、

 ――純粋持続

 のことか、と問われれば――

 

 「おおむね、その通り――」

 と、僕は答えます。

 

 が――

 少し面倒なことをいってもよいのなら、

 「一見、似ているが、実は、けっこう違う」

 と答えるでしょう。

 

 どういうことか――

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――時間のクオリア

 は、

 ――まさに今

 という感覚が、

 ――先ほど

 という“感覚の痕跡”と照らし合わされ、かつ、両者の間の溝が“感覚の模型”によって適切に埋められる結果、生じる――

 と述べました。

 

 さらに、

 ――そのうちに

 という“感覚の模型”によって“時の流れ”に“上流”が作り出される――

 とも述べました。

 

 ベルクソンのいう「純粋持続」は、

 ――まさに今

 という感覚と、

 ――先ほど

 という“感覚の痕跡”とが、“感覚の模型”によって滑らかに繋げられることで生じるクオリアに相当する――

 と、僕は考えています。

 

 さらに、それとは別の種類の“感覚の模型”によって、“時の流れ”に“上流”が作り出されることで生じるクオリアは――

 おそらく、「純粋持続」ではなくて、「持続」に相当する――

 とも――

 

 つまり、

 ――“時間のクオリア”は純粋持続より少し広い概念である。

 ということです。