マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“時間のクオリア”を例にとって

 ――感覚が“感覚の痕跡”と照らし合わされることなく、ただ“感覚の模型”が関わることによってのみ意識が働く、ということはありえないが、“感覚の模型”が関わらなければ、“意識の働き”は本質を欠く。

 ということを――

 3日前の『道草日記』で述べました。

 

 この場合の「本質を欠く」とは――

 例えば、

 ――クオリア(qualia)の体験が喪失する、もしくは、その体験が不完全なものとなる。

 ということです。

 

 ……

 

 ……

 

 以下に――

 “時間のクオリア”を例にとって――

 感覚が“感覚の痕跡”と照らし合わされる際に、いかに“感覚の模型”が関わっているかを概説しましょう。

 

 時間を体験する際に――

 感覚とは、

 ――まさに今

 という感覚です。

 

 そして――

 “感覚の痕跡”とは、

 ――先ほど

 という記憶です。

 

 よって――

 「まさに今」という感覚が「先ほど」という記憶に照らし合わされることは、

 ――時が流れている感じ

 つまり、

 ――時間のクオリア

 が生じるのに必要である、といえます。

 

 が――

 それだけでは、“時間のクオリア”は不完全であるはずです。

 

 少なくとも、

 ――時が流れている感じ

 は生じない――

 おそらくは、

 ――時が飛び飛びに移り変わっている感じ

 しか生じないでしょう。

 

 いわば、

 ――粗いコマ送り

 の感覚です。

 

 その感覚を滑らかに感じさせるのが、

 (“感覚の模型”である)

 と、僕は考えています。

 

 すなわち、

 ――まさに今

 という感覚と、

 ――先ほど

 という“感覚の痕跡”との間にある溝に何かが埋められていて、その「何か」こそが“感覚の模型”である――

 ということです。

 

 それだけではなくて――

 

 ――まさに今

 という感覚や、

 ――先ほど

 という記憶――つまり、“感覚の痕跡”――とは別に、

 ――そのうちに

 という想像――つまり、“感覚の模型”――が加えられることで、

 ――時が流れている感じ

 が作り出されている――

 つまり、“時の流れ”の“上流”が作り出されている――本来は“下流”しか存在しないはずの“時の流れ”に“上流”が作り出されている――

 

 そう――

 僕は考えています。