――心の内部で生じる何らかの刺激によって生じている“現在の感覚”が、“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されているときに、自我が自己を認識しているのではないか。
という推量について、おとといの『道草日記』で述べました。
この推量を鵜呑みにすれば――
自己は、
――心の内部で生じる何らかの刺激によって生じている“現在の感覚”
に基づいていて――
自我は、
――何らかの相関性が見出されるべく“現在の感覚”と照らし合わされる“過去の感覚”
に基づいている――
ということになります。
ただし――
ここでいう「過去の感覚」とは、厳密には、あくまでも「“過去の感覚”が脳に残している何らかの痕跡」の意味です。
この自己と自我との構図は――
思いっきり簡略化してしまえば、
自己 = 対象
自我 = 基準
となります。
つまり――
自分で自分のことを認識する際に、「自我」という基準に「自己」という対象を照らし合わせている――
ということです。
きのうの『道草日記』で、
――人が変わるのは、自我が変わるからだ。
と述べました。
「自我」という基準が変わるから――
人は、いとも簡単に、変わってしまうのですね。
が――
変わってしまった当人は、自分が変わってしまっていることには、なかなか気づけません。
周囲の人たちから、
――あの人は変わった。
といわれても――
当人は、たいていは、
――自分は変わっていない。
と思っている――
当人は、「自己」という対象が変わっていなければ、
――自分は変わっていない。
と思ってしまうのです――
なぜならば、基準である「自我」が変わっているとは――それが“基準”である以上――とうてい思えないからです。
それは――
例えば、ふだん頻用している物差しが、きょうときのうとで、多少なりとも変わっている――変わりうる――とは夢にも思わないのと同じです。