――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けることこそが、意識の働きである。
との命題は、いわゆる「自我」が、
――“過去の感覚”の集積によって脳や心の中に作り上げられる何か
であると示しうる、との推量を――
きのうの『道草日記』で述べました。
「自我」について語るならば――
当然ながら、「自己」についても語るのがよいでしょう。
「自我」と「自己」との違いは――
よく指摘されるように――
――自分で自分のことを認識するときに、その主体が「自我」であり、客体が「自己」である。
と理解できます。
これによると――
もし、
――“過去の感覚”の集積によって脳や心の中に作り上げられる何か
が、
――自我
であるとしたら――
――自己
とは何であると、いえそうでしょうか。
僕は、
――“現在の感覚”の一部
が「自己」ではないか、と――
考えています。
12月19日の『道草日記』で、
――「知覚」とは、心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すことである。
と述べました。
この際に、僕は“現在の感覚”を2種類に分類しました。
すなわち、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激によって生じる感覚
と、
――心の内部で生じる何らかの刺激によって生じる感覚
との2種類です。
これら2種類のうち、“心の内部で生じる何らかの刺激”に起因する感覚の集積こそが、
(自己を作り上げているのではないか)
と、僕は考えています。
要するに、
――心の内部で生じる何らかの刺激によって生じている“現在の感覚”が、“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されているときに、自我が自己を認識しているのではないか。
ということです。