マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

あなたが赤い苺を眺めるときに

 いわゆる、

 ――クオリア(qualia)

 という言葉で表される質――「らしさ」――を形容しようと思ったら、

 ――豊かである

 の一言に尽きます。

 

 赤い苺(いちご)を眺めているときの、あの赤の感じや苺の感じは――

 とてつもなく多彩で重厚です。

 

 少なくとも――

 僕自身が、僕自身の心で受け入れているクオリアは――

 とてつもなく多彩で重厚です。

 

 たぶん――

 あなた自身のクオリアも、同じくらいに多彩で重厚であるはずです。

 

 その豊潤を実感しようと思ったら――

 まずは言葉で表してみようとすればよいのです。

 

 例えば――

 赤い苺の“赤の感じ”や“苺の感じ”を言葉で表してみようとする――

 

 ――輝きを放ちつつも淀みを潜ませている赤の色

 とか、

 ――表面の細かな凹凸が全体の膨らみを印象づける苺の形

 とか――

 

 きっと――

 それらしく言葉で表すことはできても――

 とうてい全てを述べ尽くすことはできません。

 

 これが――

 クオリアの豊かさです。

 

 なぜ、これほどまでに豊かなのか――

 

 それは――

 あなた自身の“過去の感覚”が幾重にも残像を落としているからにほかなりません。

 

 その“赤い苺”という刺激によって生じる感覚と少しでも相関性のありそうな“過去の感覚”の全てが、残像を落としている――

 それら“過去の感覚”と密接に関連した感情とか思考とか意欲とかも、たぶん、少なからず残像を落としているに違いないのです。

 

 つまり――

 あなたが赤い苺を眺めるときに――

 その“赤い苺”に関わる生活史の全てが心に――おそらくは、意識に――覆いかぶさってくるのです。

 

 豊かでないわけがありません。