マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「好」や「嫌」は意識と密接に関わっている

 「好(こう)」や「嫌(けん)」の感情は――

 「勇」や「怯(きょう)」の感情と違い、

 ――判断に与える影響の直接性

 が――

 それほどには高くない、とみなせる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 よって、

 ――“嫌・好”軸

 を、

 ――“怯・勇”軸

 と並びうる情動軸の1つとみなすことは妥当ではない、と――

 

 ……

 

 ……

 

 「好」や「嫌」の感情は――

 「勇」や「怯」の感情と比べると、何が違うのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 (「好」や「嫌」は単純な情動ではない)

 と考えています。

 

 (意識の働きと密接に関わっている情動である)

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 ここでいう、

 ――意識の働き

 とは――

 2019年12月23日の『道草日記』で述べた命題――

 すなわち、

――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けることこそが、意識の働きである。

 で言及をされている「意識の働き」と同じです。

 

 つまり――

 「好」や「嫌」の感情は、

 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けること

 と密接に関わっているのではないか――

 ということですね。

 

 それに対し――

 「勇」や「怯」の感情は、

 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けること

 と、それほど密接には関わっていないのではないか――むしろ、ほとんど関わっていないのではないか――

 そのように思えます。

 

 この直観は―― 

 いいかえるならば――

 人は――

 “現在の感覚”と“過去の感覚”との照らし合わせに関わることなく、何かに勇んだり、何かに怯んだりすることは、大いにありうるけれども――

 “現在の感覚”と“過去の感覚”との照らし合わせに関わることなく、何かを好んだり、何かを嫌ったりすることは、殆どありえないのではないか――

 ということです。

 

 この直観を受け入れるならば――

 「好」や「嫌」の感情が、「勇」や「怯」の感情と比べ、

 ――判断に与える影響の直接性

 に乏しいことは――

 ほとんど疑いがないように思えます。