――男性が女性をみるときに、その女性を男性が性的欲求の対象とみなす場合には「女」とみ、みなさない場合は「人」とみる。
という1文を、きのうの『道草日記』に記しました。
そして、この1文から、次の1文、
――男性が女性を「女」とみるときに、その男性は「男」であり、男性が女性を「人」とみるときに、その男性は「人」である。
が派生することを述べました。
最初の1文にある「性的欲求の対象とみなす」云々について、一言――
もし、男性が女性を常に意識的に性的欲求の対象とみなせるのなら――
この1文も、それに続く1文も、ほとんど面白みはありません。
むしろ、
――明らかな誤謬ないし矛盾を含む。
と指弾されるだけでしょう。
なぜならば――
男性が女性を常に意識的に性的欲求の対象とみなせるのなら、その「男性」は常に自分を「男」か「人」かに演じ分けることができる、ということになってしまうからです。
男性が、まるで礼服と平服とを着分けるように、「男」と「人」とを自在に演じ分けられるのなら、
――男性が女性をみるときに、その女性を男性が性的欲求の対象とみなす場合には「女」とみ、みなさない場合は「人」とみる。
とか、
――男性が女性を「女」とみるときに、その男性は「男」であり、男性が女性を「人」とみるときに、その男性は「人」である。
とかいってみたところで、
――だから、何なの? そんなの、当たり前だろう?
と反駁されて、おしまいです。
実際には、男性が女性を常に意識的に性的欲求の対象とみなせるわけではありません。
往々にして、
――無意識的に――
性的欲求の対象とみなしてしまいます。
つまり、礼服と平服とを着分けるように、「男」と「人」とを自在に演じ分けられる男性など、この世に実在しません。
プロの俳優さんなら、多少は演じ分けられるのかもしれませんが、常に意識的に演じ分けられるような俳優さんは、きわめて稀少でしょう。