マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

時間の非対称性

 ――心は、脳に入ってくる感覚に「現在」をあてがい、脳に残された“感覚の痕跡”に「過去」をあてがい、脳に生じる“感覚の模型”の一部に「未来」をあてがうことで、「時間」の概念を作り出している。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 また、

 ――感覚の痕跡

 とは、

 ――記憶

 であり――

 ――感覚の模型

 とは、

 ――想像

 である――

 とも述べました。

 

 哲学で、

 ――時間とは何か。

 ということが、しばしば論じられます。

 

 その際――

 必ず指摘をされるのが、

 ――過去と未来との非対称性

 です。

 

 僕らは、

 ――時間

 というと――

 現在を原点とする数直線のような対称性をつい思い浮かべますが――

 それは、心が論理を展開して得た結論であって、本来の時間には、そのような対称性は見出せない――

 ということです。

 

 例えば、

 ――過去、現在、未来のうち、現在だけが確かにあり、過去はおそらくはあり、未来はあきらかにない。

 というふうにいわれます。

 あるいは、

 ――過去は記憶であり、未来は想像であり、現在だけが確かである。

 というふうにもいわれます。

 

 以上は――

 心の次元で論じれば、その通りなのですが――

 

 脳の次元で論じれば、冒頭に述べた通りになります。

 

 少し整理して述べ直すと、

 ――過去、現在、未来のうち、感覚として脳に入るのは現在だけであり、過去は“感覚の痕跡”として脳にあり、現在は“感覚の模型”として脳にある。

 あるいは、

 ――過去は“感覚の痕跡”であり、未来は“感覚の模型”であり、現在だけが感覚である。

 となります。

 

 以上の命題が、“時間の非対称性”を示しているのは――

 あきらかでしょう。

 

 “感覚の痕跡”は、その全部が「過去」ととらえられる一方――

 “感覚の模型”は、その一部が「未来」ととらえられます。

 

 そももそ、“感覚の痕跡”と“感覚の模型”とでは――

 ともに感覚に関わっているという意味では同じですが――

 質的には全く異なっています。

 

 その違いは――

 例えば、

 ――地面に残された轍(わだち)

 と、

 ――地面に置かれた厚紙の車

 との違いです。