“感覚の痕跡”は、
――地面に残された轍(わだち)
であり――
“感覚の模型”は、
――地面に置かれた厚紙の車
である――
という喩えを――
きのうの『道草日記』で述べました。
ここでいう「地面」とは「脳」の喩えであり、「車」とは「感覚」の喩えです。
「地面に立っている人」が、さしづめ「心」となるでしょうか。
“地面に立っている人”は――
例えば、目の前の“車”と足元の“轍”とをみて、かつ、その“車”が別の“轍”を残すのをみて――
時間の経過を悟ります。
そして――
目の前の“厚紙の車”をみて――
そのような“車”が現れ、さらに別の“轍”を残す可能性に思いをはせるのです。
その可能性こそが、
――未来
です。
大切なことは――
“地面に立っている人”は、あくまで“車の通り道”の只中に立っているのであって、決して、その“車の通り道”を遠くから眺めることはできない――
ということです。
目の前の“車”と足元の“轍”と目の前の“厚紙の車”とから、“車の通り道”の存在を思い浮かべるだけであって――
“車の通り道”それ自体の存在を確かめることは決してできない――
ということです。
この際に――
その“車の通り道”こそが、
――時間
として認識されているのです。