――“地面に立っている人”は、目の前の“車”と足元の“轍(わだち)”と目の前の“厚紙の車”とから、“車の通り道”の存在を思い浮かべるだけであって、“車の通り道”それ自体の存在を確かめることはできない。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
ここでいう、
――地面
は、「脳」の喩えであり、
――地面に立っている人
は、「心」の喩えであり、
――車
は、「感覚」の喩えであり、
――轍
は、「感覚の痕跡」の喩えであり、
――厚紙の車
は、「感覚の模型」の喩えである――
ということも、あわせて述べました。
そして、
――車の通り道
が「時間」の喩えである、ということも――
……
……
――“地面に立っている人”が“車の通り道”それ自体の存在を確かめることはできない。
という命題は――
端的にいえば、
――時間の非実在性
を示しています。
哲学では、「時間の非実在性」は、すでに20世紀初頭には論じられていました。
ただし、当時は、脳や感覚あるいは“神経細胞によって伝達される信号”についての理解や知識が乏しかったせいか、少しわかりづらい論じ方になっています。
要するに、
――“時間”の存在は、“脳や神経細胞や信号など”の存在を抜きにしては論じられない。
ということが、
――時間の非実在性
の核心であったはずなのですが――
そういう論じ方はされず、
――“脳や神経細胞や信号など”とは独立に時間が存在しているとみなした上で時間を論じ始めると、深刻な矛盾に行き当たる。
という論じ方をされたので、わかりづらいのですね。
とはいえ――
脳や神経細胞や“神経細胞によって伝達される信号”について、ほとんど何もわかっていなかった20世紀初頭において――
そのような着眼点――すなわち、「時間の実在性の正否が問われるべきである」という観点――に気づかれていたということは――
十分、驚嘆に値します。